出自と隠逸志向
- 王敬弘、琅邪臨沂の人。高祖と諱を同じくするため字で呼ばれた。曾祖の王廙は晋の驃騎将軍、祖父の王胡之は司州刺史、父の王茂之は晋陵太守。若くして清らかな志向を持ち、本国の左常侍・衛軍参軍を経て、性は恬静で山水を楽しみ天門太守となった。
- 敬弘の妻は桓玄の姉。敬弘が赴任する際、荊州にいた桓玄は招こうとしたが、敬弘は巴陵で「靈寳(桓玄)が私を呼ぶのはただ姉と会いたいだけだろう、私は桓氏の入り婿になるつもりはない」と語り、妻だけを別船で江陵へ送った。妻は桓氏の元に一年余り留まったが敬弘は迎えに行かず、山郡の閑職に任せて心ゆくまで遊覧し何日も戻らないほど楽しんでいたという。
- 桓偉の安西長史・南平太守に転じたが官を去り、作唐県の境で隠棲した。桓玄が輔政し簒位した際、たびたび召されたが出仕しなかった。高祖のもとで車騎従事中郎・徐州治中従事史・征西将軍道規諮議参軍を務め、当時府主簿の宗協も高い志向を持ち、道規は二人を俗事の外に置くべき人物として遇し、共に酣飲して酔い、敬弘が酔って礼を失した際も外司の弾劾を道規が取り成し再び宴に招いたという。
- のち中書侍郎に召され、はじめて家族を連れて作唐から京邑に戻った。黄門侍郎に転じたが拝さず、太尉従事中郎を経て呉興太守に出た(旧居が餘杭県にあったのを喜んでのことという)。まもなく侍中に召還された。
高祖・太祖朝での官歴
- 高祖の司馬休之討伐で慰労の使者に立ち、随行の通事令史潘尚が道中で病に倒れた際、単船で都に送り返したが生死は不明のままで、有司の弾劾により免官が奏されたが赦により復官した。宋国建国初年、度支尚書に遷り、太常に転じた。
- 高祖受命後、宣訓衛尉を補し散騎常侍を加えられる。永初三年(422年)吏部尚書に転じ常侍はそのまま。敬弘は召されるたびにすぐ応じたが、赴任後まもなく官を辞す性質で、高祖はその志が徒に反抗的でないことを称賛した。廬陵王師に任じられ散騎常侍を加えられたが、自ら「徳なく師範たりえない」と固辞し就かず。祕書監・金紫光禄大夫・散騎常侍・本州中正にも任じられたがやはり就かなかった。
- 太祖即位後、散騎常侍・金紫光禄大夫・領江夏王師となる。元嘉三年(426年)尚書僕射となったが、文案の署名を初めから読まずに行っていた。ある時、訴訟の陪席で太祖が疑獄について問うたが敬弘は答えず、太祖が色をなして左右に「なぜ訴訟記録の副本を僕射に渡さないのか」と問うと、敬弘は「私は記録を得ても、政(政務の実務)は理解できないのです」と答え、太祖は大いに不快であった。
- 元嘉六年(429年)尚書令に遷ったが固辞して東(会稽)に帰ることを求め、太祖はこれを翻意させられず、侍中・特進・左光禄大夫、親信二十人を給せられた。侍中・特進を辞退し親信も半減を求めたが許されなかった。東帰の際、太祖は冶亭に行幸して見送った。
- 元嘉十二年(435年)太子少傅に召され上京し、上表して辞退した(趣旨:病身で東方に隠棲する志であり、太子少傅の重責は自らの徳に見合わない、内外に有能な人材が多い中、自分のような老いた者が汚すべきではない、上表を提出しつつも御顔を拝しに参内した忠誠心はお汲み取り願いたい)が許されず、結局拝さず東に帰った。当時、体調不良を押して太祖に謁見した。
- 元嘉十六年(439年)左光禄大夫・開府儀同三司・侍中に任じられ、再び上京し辞退の上表を行った(趣旨:以前から誠意を尽くしてきたが未だ許されておらず、七十歳で致仕する礼にならい、家に戻りたい)が、やはり拝さず東に帰った。
- 元嘉二十三年(446年)再び前命が重ねて下され、上表した(趣旨:南方の田を耕す身であったのを先帝に取り立てられ国士の待遇を受け、陛下にも変わらず眷顧されたことに感激して仕えてきたが、齢九十に近く生涯も尽きようとしている、天恩を仰ぎつつ丘壑に沈もうとしている)。翌年、餘杭の舎亭山で薨じた。享年八十。本官を追贈され、順帝昇明二年(478年)詔により諡を文貞公とされた(詔の趣旨:奥深い節操と高い徳を持ち、朝廷の栄達を望まず清らかな風格で世俗に良い影響を与えた功績を称え、諡号を定める)。
人柄と逸話
- 敬弘は体格が小さいが立ち居振る舞いは端正で、桓玄はこれを「弾棊の八勢(碁盤遊戯の巧みな一手)」と評した。居所の舎亭山は林澗に囲まれ登臨の美を備え、時人は「王東山」と呼んだ。太祖がかつて政の得失を問うと、敬弘は「天下に道あれば庶人は議論しない」と答え、太祖はその言葉を高く評価した。
- 二人の年老いた婢女に五色の組紐と髪飾りを着け、青い紋様の袴襦を身につけさせ朱粉で飾らせるという奇行があった。娘は尚書僕射何尚之の弟述之に嫁いだ。敬弘があるとき何家を訪ね娘を見に行ったところ、尚之が留守中で書斎に横になっていたが、まもなく尚之が戻ると、敬弘は婢女に部屋の戸を守らせ「暑くて会えない」と言って尚之を入れさせず、尚之は他室に移ったという逸話がある。
- 子の恢之が祕書郎に召された際、敬弘は奉朝請への異動を求める書を送った(趣旨:祕書は限られた官なので競争が生じるが、奉朝請には制限がないため競争がない、お前を争いのない地位に置きたい)。太祖はこれを嘉して許した。
- 敬弘は子孫と年に一二度しか会わず、会う際も日を決めていた。恢之が休暇で帰省した際も面会の日を決めていたが当日は結局会わず、休暇が尽きる頃恢之が辞去を願い出ると、敬弘は呼び寄せながらも門前まで来て結局会わず、恢之は門外で拝礼して涙を流しつつ去ったという。恢之はのち新安太守・中大夫に至った。
- 恢之の弟の瓚之は世祖大明中に吏部尚書・金紫光禄大夫となり諡は貞。瓚之の弟の昇之は都官尚書。昇之の子の延之は昇明末に尚書左僕射・江州刺史となった。