宋書卷五十三 列傳第十三 張茂度

張茂度

茂度は呉郡呉の人、漢の張良の後裔である。7世の孫が長沙太守となり呉に移り住んだ。名が高帝(高祖)の諱と同じであったため字で呼ばれた。曾祖澄は晋の光禄大夫、祖彭祖は広州刺史、父敞は侍中・尚書・呉国内史。茂度は郡の上計吏・主簿・功曹、州の従事史の召命にも応じず、琅邪王衛軍参軍・員外散騎侍郎・尚書度支郎に除せられたが父の喪により拝さず、服喪明けに何無忌の鎮南参軍となり、ほどなく晉安太守に出た。盧循が寇となり江州を覆没させた際、茂度と建安太守孫虯之はその符書を受けて調役に供したため、循が敗走すると連座して免官となった。再び始興相となったが、郡は賊寇を経て廨宇は焼かれ民物は凋散し百に一つも残っていなかった。茂度は城寺を創立し死者を弔い傷者を撫で離散した民戸を集め、一年で郡は次第に復した。太尉参軍に徴され、尋いで主簿・揚州治中従事史に転じた。高祖の劉毅西伐に際し茂度は留守として州事を委ねられた。軍が還ると中書侍郎に遷り、出て司馬休之の平西司馬・河南太守となったが、高祖が休之討伐を計画すると聞き、軽船で逃げ下り高祖に道中で出会い録事参軍とされた(太守は元のまま)。江陵平定後、驃騎将軍道憐が荆州にあると茂度は咨議参軍(太守元のまま)となり、還って揚州別駕従事史となった。高祖の関洛北伐に際し再び留州事を任され、出て使持節督広交二州諸軍事・建武将軍・領平越中郎将・広州刺史となり百越を綏静し嶺外を安んじたが、病により還ることを求め、再び道憐の司馬となった。継母の喪に服し、喪明けに廷尉に除せられ、尚書吏部郎に転じた。

太祖元嘉元年(424年)、使持節督益寧二州・梁州の巴西・梓潼・宕渠・南漢中、秦州の懷寧・安固六郡諸軍事・冠軍将軍・益州刺史として出た。三年(426年)、太祖が荆州刺史謝晦を討つにあたり益州に軍を遣り江陵を襲わせる詔が出たが、晦がすでに平定されてから軍がようやく白帝に至った。茂度はもとより晦と親しかったため、議者は出軍の遅延を疑ったが、この時茂度の弟劭が湘州刺史として挙兵し大駕に応じていたため、上は劭の誠節をもって罪を加えず、代えられて京師に還った。七年(430年)、廷尉に起用され奉車都尉を加えられ本州の中正を領し、入って五兵尚書となり太常に徙り、脚疾により義興太守に出て秩中二千石を加えられた。上は従容として茂度に「もう西蜀の件を心に懸けるな」と語ると、茂度は「もし陛下の明察に遭わなければ墓の木もすでに拱(両手で抱える太さ)になっていたでしょう」と答えた。ほどなく解職して家に還り、都官尚書に徴され散騎常侍を加えられたが病を理由に固辞し、光禄大夫を拝命し金章紫綬を加えられた。茂度は財に困らず人事を絶ち、本県の華山を開いて居所とし優游野澤の暮らしを7年送った。十八年(441年)、会稽太守に除せられ、もとより吏能があり郡県の職事はよく治まった。翌年官にて卒、時に67歳、恭と諡された。

同郡の陸仲元は晋太尉陸玩の曾孫である。事に用いられ知られ、清資の吏部郎・右衛将軍・侍中・呉郡太守を歴任した。玩から仲元まで四世にわたり侍中を出し、当時の人はこれを金氏・張氏の二族に比した。

弟子眞は元嘉十年(433年)海陵太守となった。中書舎人狄当は太祖に信任されていたが、家は海陵にあり死後の帰葬の際、橋路が壊れて喪車が通れず、県が民を発して修治するよう求めたが子眞はこれを許さなかった。司徒彭城王義康はこれを聞いて善しとし国子博士・司徒左西掾・州治中・臨海東陽太守に召した。茂度の子演は太子中舎人、演の弟鏡は新安太守、ともに盛名があったが早卒した。鏡の弟が永である。

張永――才芸と北伐の失敗

永は字を景雲といい、初め郡主簿・州従事となり司徒士曹参軍に転じ、出て餘姚令に補せられ、入って尚書中兵郎となった。これより先、尚書の中条の制は繁雑であったため、元嘉十八年(441年)、整理を加えようとして永を刪定郎に徙しその任にあてた。二十二年(445年)、建康令に除せられ、どの職も称績があり、また広陵王誕の北中郎録事参軍に除せられた。永は書史に渉猟し文章を能くし隷書を善くし音律に暁く騎射雑芸に触れるものはすべて善くし、巧思にも富み、ますます太祖に知られ、紙や墨も自ら製造した。上は永の表啓を得るたびに執り玩び咨嗟し「自分でもこうはできない」と自嘆した。二十三年(446年)、華林園・玄武湖の造営にあたり永に監統させ、すべての制署は永から準則を受けた。江夏王義恭の太尉中兵参軍・越騎校尉・振武将軍・広陵南沛二郡太守に徙り、二十八年(451年)、また江夏王義恭の驃騎中兵参軍に除せられ沛郡は元のまま。永は才能があり在任のたびに心力を尽くし、太祖は将たるに堪えると評した。

二十九年(452年)、永を督冀州・青州の済南・楽安・太原三郡諸軍事・揚威将軍・冀州刺史とし、王玄謩・申坦ら諸将を督して河南を経略、碻磝城を攻めたが数旬落とせなかった。その年8月7日夜、虜が門を開いて楼や攻車を焼き、士卒が焼死し虜に殺された者が甚だ多かった。永はその夜のうちに包囲を解き軍を退いたが諸将に報告しなかったため、衆軍は驚擾し虜に乗ぜられ死敗は塗地に至った。永と申坦はともに統府撫軍将軍蕭思話に捕らえられ歴城の獄に繋がれた。太祖は度重なる遠征で功がなく諸将の責任を問えぬとして、永らと思話への詔で「虜がすでに勝ちに乗じ厳冬に向かおうとしている、もし彼らが命知らずに向かってくれば兄弟父子で自らこれに当たらねばならぬだけだ」と述べ、言葉には憤りが増しており、これを張永・申坦に示せとした。また江夏王義恭への書に「早くこの諸将の輩がこうなると分かっていれば白刃で駆り立てなかったことを恨むが、今悔いても及ばぬ」と記した。

張永――義宣の変から薛安都討伐まで

三十年(453年)、元凶が弑立すると永は督青州の楽安・東莱二郡諸軍事・輔国将軍・青州刺史に起用され、司空南譙王義宣が義を起こすと、また永を督冀州・青州の済南・楽安・太原三郡諸軍事・輔国将軍・冀州刺史に板任した。永は司馬崔勲之・中兵参軍劉則の二軍を国難に馳せ赴かせた。時に蕭思話は彭城にあり、義宣は二人が相和さぬのを慮り、思話に書を送り永と坦への懐を寛くするよう勧め、また永の従兄で長史の張暢に永への書を送らせ、「近く都の便りがあり汝の刑網の由来がすでに明らかとなった、これは縲紲(捕縛)にあってもなお心に愧じるところがないと言える。蕭公はもとより平厚で先には嫌隙もなかった、汝の書状を見ても相傷つける言葉はなかった、どうしてこう滔々として人の意にかなうことがあろうか。今は世の艱難迫る折、義気が雲のように起こり、群賢の力を借りて時難を共に済すべき時だ。遠くは廉頗・藺相如の公にある徳を慕い、近くは平勃(周勃・陳平)の私を忘れる美を効すべきだ」と書かせた。事平定後、江夏王義恭の大司馬従事中郎・領中兵に召された。百僚に讜言(直言)を献じさせる詔があった際、永は諫官を立て不諱の路を開き、師旅(軍事)を講じ安きにあっても危うきを忘れぬことを示すべきだと述べた。

世祖孝建元年(454年)、臧質が反すると永を遣り武昌王渾を輔け京口に鎮させた。その年、揚州別駕従事史に出て、翌年召されて尚書左丞となった。時に将士の休暇は年に三番開かれ道路が紛紜としていたため、永は上言し、兵を開き稼に従うのは前王の兼隙であり耕戦を交互に労わせるのは先代の経遠の策であること、今は化が万里に寧んじる時であること、将士の休暇が三番に及び一年の間に四たび遠路を馳せることで春耕・秋収の要を違え公私ともに蓄えを失っていること、交代の限りを一年を制とすべきことを説き、これに従われた。大明元年(457年)、黄門侍郎に遷り虎賁中郎将・本郡中正を領し、三年(459年)廷尉に遷った。上は「卿はすでに(漢の名判官)張釈之と同姓だ、天下に無実の民がないようにさせたい」と語り、寧朔将軍・尚書吏部郎・司徒右長史・尋陽王子房冠軍長史を加えた。四年(460年)、明堂が建てられると永は本官のまま将作大匠を兼ね、事が終わると太子右衛率に遷った。七年(463年)、宣貴妃殷氏のために廟が立てられると再び将作大匠を兼ね、右衛将軍に転じた。その年、世祖が南巡し宣城から道を候し東に入るにあたり、永に水路を巡行させたが、その歳は旱で水路が通じず、上は大いに怒り免官となった。時に上が寵愛する子の新安王子鸞が南徐州刺史となり呉郡を割いて徐州に属させていたが、八年(464年)、永を別駕従事史に起用し、その年御史中丞に召された。前廃帝永光元年(465年)、呉興太守に出て度支尚書に遷り、太宗即位後吏部尚書に除せられたが拝命前に四方の反乱が起こり、再び呉興太守・冠軍将軍・仮節としたが拝命前に将軍・仮節のまま呉郡太守に徙り軍を率いて東討、また散騎常侍・太子詹事に除せられたが拝命前に使持節監青冀幽并四州諸軍事・前将軍・青冀二州刺史に遷り、諸将を統べて徐州刺史薛安都を討ち、連戦して薛索兒らを破った(事は安都伝に見える)。また散騎常侍・鎮軍将軍・太子詹事に遷り権りに徐州刺史を領し、また都督徐兗青冀四州諸軍事となり、また使持節都督南兗徐二州諸軍事・南兗州刺史(常侍・将軍は元のまま)となった。時に薛安都が彭城に拠り降を請うたが誠心を欠いており、太宗は永と沈攸之に重兵で迎えさせ督前鋒軍事を加え彭城に進軍させたが、安都は索虜の兵を招き入れ、虜が到着すると士卒は離散、永は狼狽して軍を引き還したが虜に追われ大敗、寒雪に遭って士卒はさらに離散し、永は脚指を凍傷で失いかろうじて身を全うしたが第四子を失った。

張永――晩年

三年(467年)、督会稽東陽臨海永嘉新安五郡諸軍事・会稽太守(将軍は元のまま)に徙り、北討の失律により自ら降号を求め左将軍となった。永は失った子を深く痛悼し、喪服を除いた後も霊座を立て飲食・衣服を生けるがごとく供え、外出のたびに別に名車・好馬を用意し「侍従」と号し、何か事があると左右に「郎君に報告せよ」と語ったという。薛索兒を破った功により孝昌県侯・食邑千戸に封ぜられた。会稽にあって賓客の謝方童らが贓罪により獄に下され死んだ件で、永はまた冠軍将軍に降号された。四年(468年)、使持節督雍梁南北秦四州・郢州の竟陵・随二郡諸軍事・右将軍・雍州刺史に遷ったが拝命前に留まり太子詹事・散騎常侍・本州大中正を加えられた。六年(470年)、また護軍将軍・領石頭戍事を加えられ鼓吹一部を給せられ、七年(471年)、金紫光禄大夫に遷りほどなく再び護軍を領した。後廃帝即位後、右光禄大夫に進み侍中・領安成王師を加えられ親信20人を加えられ、また本州中正を領し、出て呉郡太守(秩中二千石、侍中・右光禄は元のまま)となった。元徽二年(474年)、使持節都督南兗徐青冀益五州諸軍事・征北将軍・南兗州刺史(侍中は元のまま)に遷った。永は若くから駆馳を好み志は宣力(尽力)にあり、年老いても気は衰えず、この任を得て非常に喜び、即日車を命じて都に還った。まだ鎮に赴かぬうち桂陽王休範が反乱を起こすと、永は所領を率い白下に出屯した。休範が新亭に至り大桁が守れなくなると前鋒は南掖門を攻め、永は人を遣り賊情を見させたが、戻った者が「台城はすでに陥ちた」と唱えたため永の衆はここで潰散、永もまた軍を棄てて逃げ、先に住んでいた南苑に還った。永が旧臣であることから罪は加えられず免官・削爵のみとなったが、永もまた愧じ嘆いて発病、三年(475年)卒、時に66歳。順帝昇明二年(478年)、侍中・右光禄大夫を追贈された。子の瓌は昇明末に顕達した。永の弟辯も太宗に見任され尚書吏部郎・広州刺史・大司農を歴任、辯の弟岱は昇明末に吏部尚書となった。