宋書卷五十一 列傳第十一 宗室 長沙景王劉道憐・臨川烈武王劉道規・劉遵考
長沙景王道憐――挙兵初期の戦功
道憐は高祖の中弟(次弟)である。初め国子学生となり、謝琰が徐州の命として従事史とした。高祖が京城を克し、京邑を平定した際、道憐は常に家に留まり太后を侍慰した。桓玄が敗走すると大将軍武陵王遵の承制により員外散騎侍郎に除せられ、ほどなく建威将軍・南彭城内史に遷った。時に北青州刺史劉該が反し索虜を援に引き入れ、清河・陽平二郡太守孫全が衆を集めてこれに応じた。義熙元年(405年)、索虜托跋開が偽豫州刺史索度真・大将軍斛斯蘭を遣り徐州に寇し相県を攻め鉅鹿太守賀申を捕え、寧朔将軍羊穆之を彭城に包囲した。穆之が急を告げると道憐は衆を率いて救援、軍は陵柵に次し全を斬り、彭城に進むと真・蘭は退走、道憐は寧孟龍驤将軍孔隆および穆之らと真・蘭を追い相城まで走らせ、さらに光水溝まで追撃し劉該を斬った。虜衆は殺されるか水に赴いて死んだ者がほとんどであった。
高祖が京口に鎮すると道憐は龍驤将軍に進号し堂邑太守を領して石頭を戍った。翌年、使持節監征蜀諸軍事を加えられ冠軍将軍劉敬宣らを率いて譙縦討伐に赴いたが、文処茂・温祚が険に拠り進めなかったため果たされなかった。義勲により新興県五等侯に封ぜられた。四年、諸葛長民に代わり并州刺史・義昌太守(将軍・内史は元のまま)となり、なお石頭を戍った。時に鮮卑の侵逼により彭城以南の民は皆山に保聚し、山陽・淮陰の諸戍は復立されなかった。道憐は彭城に拠り漸次修剏することを請うたが、朝議は彭城が遠すぎるとし山陽に鎮させた。征虜将軍に進号、督淮北軍郡事・北東海太守・并州刺史・義昌太守(元のまま)となり、索度真を破った功で新渝県男・食邑500戸に封ぜられた。
高祖の広固征討に常に軍鋒となり、城が陥ちると慕容超が親兵を率いて包囲を突いて逃げようとしたが、道憐の部下がこれを捕えた。使持節を加えられ左将軍に進号。7年(411年)、并州を解かれ北徐州刺史を加えられ彭城に移鎮。8年(412年)、高祖の劉毅討伐にあたり都督兗青二州・晉陵・京口・淮南諸軍郡事・兗青州刺史(持節・将軍・太守は元のまま)に徴され、京口に還鎮した。9年(413年)、甲仗50人を賜り殿中に入ることを許され、広固の功により竟陵県公・食邑千戸に改封、先の封戸の半分を減じて次子義宗に賜った。11年(415年)、中軍将軍に進号、散騎常侍を加えられ鼓吹一部を給せられた。翌年、司馬休之討伐にあたり道憐は留府の事を監し甲仗100人を賜り殿中に入った。
長沙景王道憐――荆州鎮守と薨去
江陵平定後、都督荆湘益秦寧梁雝七州諸軍事・驃騎将軍・開府儀同三司・鎮護南蛮校尉・荆州刺史(持節・常侍は元のまま)となり、北府の文武はすべてこれに配された。道憐はもとより才能に乏しく言葉は訛りが強く挙止も多く不器用であった。高祖は将軍・佐吏を遣り輔けさせたが、道憐は貪欲で財貨を蓄えることはなはだしく、鎮を去る日には府庫が空になっていたという。
高祖が三秦(関中)を平定すると外征を思い立ち、道憐を還し侍中・都督徐兗青三州・揚州の晉陵諸軍事・守尚書令・徐兗二州刺史(持節・将軍は元のまま)とした。尚書令を解かれ司空に進み京口に出鎮。高祖が受命(帝位)すると太尉に進み長沙王・食邑5千戸に封ぜられ、持節・侍中・都督・刺史は元のまま。永初二年(421年)、朝正のため殿省に入った。これより先、廬陵王義真が揚州刺史であった際、太后は上(文帝)に「道憐はお前の同母兄弟なのだから揚州を継ぐのがふさわしい」と言ったが、上は「寄奴(義真の幼名)を道憐より軽んじているわけではない、揚州は根本の寄る所で事務が甚だ多く、道憐が理解できるものではない」と答えた。太后が「道憐は五十を超えているのに十歳の子にも及ばぬというのか」と問うと、上は「車士(義真)は刺史とはいえ事の大小はすべて寄奴が取り仕切っている。道憐は年長でも自ら政務に携わらず、人望に足りない」と答え、太后は黙した(車士は義真の小字)。三年(422年)春、高祖が病むと道憐に班剣30人が加えられた。時に道憐は入朝しており、司馬陸仲元を留めて留守させたが、刁逵の子彌が亡命者数十人を率いて京城に入り、仲元がこれを撃ち斬った(先に府史陳㹠が彌の異謀を告げていた)。仲元には銭20万を賜い県令に除せられた。五月、宮車晏駕(高祖崩御)すると道憐は疾患のため喪に臨めず、六月に薨じた、時に55歳。太傅を追贈され持節・侍中・都督・刺史は元のまま、祭礼は晋の太宰安平王の故事に依り、鸞輅九旒・黄屋左纛・轀輬車・挽歌二部・前後部羽葆鼓吹・虎賁班剣百人が給せられた。
太祖元嘉九年(432年)、詔により道憐は穆之(南康文宣公)・道規(臨川烈武王)・弘(華容県開国公)・道済(永修県開国公)・鎮悪(龍陽県開国侯)ら功臣とともに高祖廟廷への配祭を定められた。
道憐には6人の子があった。義欣・義慶・義融・義宗・義賓・義綦である。
道憐の子ら――義欣とその子孫
義欣は嗣子として員外散騎侍郎を拝命したが受けず、中領軍・征虜将軍・青州刺史・魏郡太守(将軍元のまま)を歴任し石頭を戍った。元嘉元年(424年)、後将軍に進号、散騎常侍を加えられ、三年、本号のまま南兗州刺史となり鼓吹一部を給せられ壽陽に鎮した。時に土境は荒廃し人民は彫散し城郭は頽敗、盗賊が公然と横行していたが、義欣は綱紀を補修し適宜これを治め、劫盗の経路には討誅の制を立て、境内は畏服し道に落ちた物を拾わぬまでになり、城府の庫蔵はすべて充実し、壮んな藩鎮となった。淮西・江北の長吏はみな功労のあった人物や武人が任じられ多くが政術を知らなかったため、義欣は「江淮の左右は土地が痩せ民は疎らで、近年飢饉が相次ぎ百城は疲弊が甚だしい。綏牧の適任者は良吏を必要とするが、今のままでは労人や武夫が政術を経ずに官長に授けられている。東南の豊かな地でさえ有能な人材を選ぶのに、況して荒れた辺境をどうして治められようか。選部に勅して必ず適任者を得るようにされたい」と上言した。芍陂の良田万余頃は堤堰が壊れて久しく秋夏に旱に苦しんでいたが、義欣は諮議参軍殷肅を遣り修理させ、旧溝を開いて渒水を陂に引き旱害を除いた。十年(433年)、鎮軍将軍に進号、監から都督に進んだ。十一年(434年)夏に入朝、太祖は厚く恩礼を加えた。十六年(439年)薨、時に36歳。散騎常侍・征西将軍・開府儀同三司(持節・都督・刺史は元のまま)を追贈され成王と諡された。
子の悼王瑾は太子屯騎校尉に至り、三十年(453年)元凶(劉劭)に殺された。世祖即位後、散騎常侍を追贈された。瑾の子粲は早世、粲の弟纂(字元績)が嗣ぎ歩兵校尉に至り、順帝昇明二年(478年)薨、斉の受禅で国は除かれた。瑾の弟祗(字彦期)は大明中に中書郎となったが、太宰江夏王義恭が中書監を領するにあたり親族が相臨むことを避けて解職を求め、世祖は「昔二王・両謝もみな同様であった、今後三台五省はみなこの例に倣え」と詔した。太宗の初め南兗州刺史・都官尚書となったが、晋安王子勛の逆に応じ誅に伏した。祗の弟楷は秘書郎で元凶に殺され通直郎を追贈された。楷の弟聸は晉安太守として子勛と同逆し誅に伏した。聸の弟韞(字彦文)は歩兵校尉・宣城太守であったが、子勛の乱に際し四方の牧守がみな同逆する中、ひとり郡を棄てて朝廷に赴いた。太宗はその誠を嘉し黄門郎・太子中庶子・侍中に任じ、荆湘州・南兗州刺史・呉興太守・侍中領左軍将軍を加え、のち驍騎将軍・撫軍将軍・雍州刺史・侍中領右衛将軍、さらに左衛将軍・散騎常侍・中領軍と歴任したが、昇明二年(478年)謀反により誅に伏した。韞は人才凡庸で、宣城の勲功により特に太宗に寵愛されたが、湘州・雍州にあった際、善画者に自らの出行の鹵簿(儀仗)を描かせ常にこれを愛玩し、征西将軍蔡興宗にこの図を見せたところ、興宗はふざけて画中の韞の姿を指し「これは誰か」と問い、韞は「これは私だ」と答えたという、その凡庸さはこの程度であった。韞の弟弼は武昌太守で同じく子勛に同逆し誅に伏した。弟の鑒は員外散騎侍郎で早卒。鑒の弟勰(字彦龢)は侍中・呉興太守、後廃帝元徽元年(473年)卒。勰の弟顥(字彦明)は侍中・左衛将軍・冠軍将軍・呉興太守に任じられるも赴任前の元徽四年(476年)卒、右将軍を追贈された。顥の弟述は東陽太守・黄門郎で、従弟の秉と同逆した事が発覚して白山に走ったが捕えられ誅に伏した。
義欣の弟義慶は臨川烈武王道規の嗣子として出継した(詳細は道規の項)。
道憐の子ら――義融・義宗・義賓・義綦とその子孫
義融は永初元年(420年)桂陽県侯・食邑千戸に封ぜられた(王子で侯となる者の食邑はみな千戸)。侍中・左衛将軍・太子中庶子・五兵尚書・領軍を歴任、質幹があり短楯の用兵に長けた。元嘉18年(441年)卒、車騎将軍を追贈され恭侯と諡された。子の孝侯顗が嗣ぎ太子翊軍校尉に至ったが元凶に殺され、世祖即位後散騎常侍を追贈された。顗に子がなく、弟が子の晃を養子として爵を継がせたが、昇明二年(478年)、員外散騎侍郎安成戢仁祖、荒人王武連、羽林副彭元儁らと謀反し国は除かれた。
義融の弟義宗は幼くして高祖に愛され字を伯奴と賜り新渝県男に封ぜられた。永初元年、爵を侯に進められ、黄門侍郎・太子左衛率を歴任。元嘉八年(431年)、門生柱徳霊が横暴に人を打った件で、義宗が自邸内に匿った罪に坐して免官となった。徳霊は容姿に優れ義宗に寵愛されており、もと会稽郡吏で、謝方明が会稽太守であった際その子謝恵連も徳霊を寵愛し彼のために「乗流遵歸渚」など十余首の詩を賦したという。義宗はのち侍中・太子詹事となり散騎常侍・征虜将軍・南兗州刺史を加えられ、二十一年(444年)卒、散騎常侍・平北将軍を追贈され惠侯と諡された。士を愛し施しを楽しみ文籍を好んだことで世に称された。子の懐侯玠が嗣ぎ琅邪・秦郡太守となったが元凶に殺され散騎常侍を追贈された。玠に子がなく、弟の秉の子承が養子として爵を継いだ。
秉(字彦節)は初め著作郎となり羽林監・越騎校尉・中書黄門侍郎を歴任、太宗泰始初め侍中となり左衛将軍・丹陽尹・太子詹事・吏部尚書を頻繁に転じた。宗室に才能ある者が乏しい中、秉は若くから自ら砥礪して朝野の誉を得、太宗の信任を受けた。五年(469年)、前将軍・淮南宣城二郡太守に出たが拝せず本任に還り、再び侍中・守秘書監領太子詹事となり、拝命前に使持節都督南徐徐兗豫青冀六州諸軍事・後将軍・南徐州刺史(散騎常侍を加える)に遷った。後廃帝即位後、都督郢州・豫州の西陽・司州の義陽二郡諸軍事・郢州刺史(持節・常侍は元のまま)に改まったが拝命前に尚書左僕射に留まり選挙を参与、元徽元年(473年)吏部を領し兵500人を加えられ、ついで衛尉を領するも辞して拝さなかった。桂陽王休範の反乱に際し中領軍劉勔が石頭に出守すると秉は権りに領軍将軍を兼ね、支給された兵をそのまま従えて殿中に入った。二年(474年)、散騎常侍・丹陽尹を加えられ吏部を解かれ、当陽県侯・食邑千戸に封ぜられ、斉王(蕭道成)・袁粲・褚淵と日を分けて入直し機事を決した。四年(476年)、中書令に遷り撫軍将軍・常侍・尹は元のまま。順帝即位後、尚書令・中領軍将軍(元のまま)に転じた。時に斉王が輔政し四海の心はこれに帰していたが、秉は鼎命(天命の移り)がここにあることを知り密かに異図を懐いた。袁粲は石頭に鎮していたが天命を識らず、沈攸之が兵を挙げて斉王に反した際、斉王は朝堂に入って屯し、粲は密かに秉および諸大将黄回らと乱を謀り、本来は夜に石頭に会し朝に挙兵する予定であったが、秉はもとより臆病で騒動に落ち着かず、再餔(夕方)後には丹陽郡から車で婦女を載せ一族すべてを石頭に奔らせ、部曲数百が道に満ちて赫奕としていた。石頭に至り粲に会うと、粲は驚いて「なぜこう急に来たのか、事はもう敗れた」と言った。秉は「今公に会えたなら万死しても悔いはない」と答えた。従弟の中領軍韞は当直中に、直閤将軍卜伯興と共謀してその夜に斉王を攻めようとしていたが、秉が去ったことで事が発覚し、斉王は夜に驍騎将軍王敬則を遣り韞を捕えさせた。韞はすでに戒厳していたが、敬則が壮士を率いて直進すると韞の左右は皆逃げ散り、ついに殺された。伯興もまた誅に伏した。粲が敗れると秉は城を越えて逃げ、額檐湖で捕えられ、二子の承・俁とともに死んだ。秉時に45歳。秉の妻蕭氏は蕭思話の娘である。元徽中、朝廷が危殆に瀕していた頃、妻は常に禍を恐れ秉に「あなたはもう富貴を十分に得た、子のために計をなすべきだ、五十に近い残りの命を惜しんでどうする」と言ったが、秉は従わなかった。
秉の弟謨は奉朝請。謨の弟遐(字彦道)も奉朝請・員外散騎侍郎であったが、嫡母殷氏の養女雲敷と私通し、殷氏がこれを禁じるたびに諫めていたところ、殷氏が急病で卒し、大殮前に口鼻から血を流していたため遐が密かに毒を盛ったのではと疑われ有司に糾された。世祖は始安郡に徙したが永光中に帰還を許され、太宗の世に黄門侍郎・都官尚書・呉郡太守を歴任した。兄秉が死ぬと斉王は遐も誅殺させた。遐は人柄が甚だ凡庸で自らの名を諱み、常に賓客に「孝武帝は無道で私に母を殺させた」と語ったという、その頑迷さはこの程度であった。秉が権勢にあった頃、遐はしばしば方伯(州刺史)の職を求めたが、秉は「私が用いてお前を州に出しても人望に足りない」と拒んだ。遐は「富貴の時には関係ないと言っていたのに」と言ったが、連座の日には結局免れることができず死んだ。
義宗の弟義賓は元嘉二年(425年)新野県侯に封ぜられ、六年(429年)新野が荒廃したため興安県侯に改封、黄門郎・秘書監・左衛将軍を経て輔国将軍・徐州刺史に至り、二十五年(448年)卒、後将軍を追贈され肅侯と諡された。子の惠侯綜が嗣ぎ、綜没後子の憲が嗣いだが昇明二年斉の受禅で国は除かれた。綜の弟琨は晉平太守。
義賓の弟義綦は元嘉六年営道県侯に封ぜられた。凡庸で見識に乏しく、始興王濬兄弟にしばしば戯弄された。濬は義綦に「陸士衡の詩に『営道に烈心無し』とあるが、どういうつもりで阿父(叔父)をこう苦しめるのか」とからかったが、義綦は「私にはそもそも何のことか分からない、なぜ苦しめるのか」と答えたという、その庸鈍で滑稽さはこの類であった。右衛将軍・湘州刺史を歴任、孝建二年(455年)卒、平南将軍を追贈され僖侯と諡された。子の長猷が嗣ぎ歩兵校尉に至り、昇明三年(479年)卒、斉の受禅で国は除かれた。
臨川烈武王道規――挙兵から江陵平定まで
道規は字を道則といい、高祖の末弟(一番下の弟)である。若くして倜儻で大志を抱き、高祖はこれを奇とした。桓玄の時代、桓弘が広陵に鎮していた際、道規は征虜中兵参軍となった。高祖が京城を克すると、道規もその日のうちに劉毅・孟昶とともに弘を斬り、衆を収めて渡江、京邑平定に加わった。玄が敗走すると晋の大将軍武陵王遵の承制により道規は振武将軍・義昌太守となり、劉毅・何無忌とともに玄を追った。玄は西の江陵に走り、郭鈐・何澹之らに盆口を固守させた。義軍が至ると賊は艦を列ねて拒み、澹之は羽儀・旗幟をひとつの舫に空しく設け、自らは別の船に隠れていた。何無忌が羽儀のある舫を攻めようとすると、衆はみな「澹之は必ずそこにはいない、得ても益はない」と反対したが、無忌は「澹之がそこにいないことはもとより承知の上だ。いないなら戦士も手薄なはず、精鋭でこれを攻めれば必ず捕らえられる。捕らえた日には賊は軍主を失ったと思い、我らは賊将を得たと思い込む。我は勇み彼は懼れ、懼れれば我らはさらに迫る、これで必ず破れる」と答えた。道規は喜び「これぞ名計だ」と言い、その舫を攻めて捕らえ、鼓譟して「すでに何澹之を斬った」と唱えさせると、賊徒も義軍もみなこれを真実と思い込み、兵を放つと賊衆は奔敗した。盆口を克ち尋陽を平定、さらに馳せ進んで崢嶸洲で玄と遭遇した。道規らの兵は1万に満たなかったが玄の戦士は数万におよび、衆は皆これを憚り尋陽に退こうとした。道規は「不可能だ、彼は多く我は少なく強弱の勢いが異なる。今もし畏れ懦(ひる)んで進まなければ必ず彼に乗じられる、尋陽に至ってもどうして自ら固められよう。玄は名を盗んでいるが実は臆病であり、加えてすでに一度敗走を経験し衆に固い心がない。決機は両陣にあり雄なる者が克つ。昔光武の昆陽の戦い、曹操の官渡の師はみな少をもって多を制した、誰もが知るところだ。今は昔人に劣るとしても、先んじて弱気になってはならない」と述べ衆を麾いて進み、毅らもこれに従い玄軍を大破した。郭鈐は玄とともに単舸で江陵に走ったがもはや守れず蜀に入ろうとして馮遷に斬られた。義軍は風に阻まれ進めず、その間に桓謙・桓振が再び江陵に拠った。毅は巴陵に留まり、道規は無忌とともに進み、馬頭で桓謐を、寵洲で桓蔚を破った。無忌は勝ちに乗じ直ちに江陵を取ろうとしたが、道規は「兵法に屈伸には時がある、苟且に進んではならない。桓氏一族は代々西楚に居し、群小はみな力を尽くしその勇は三軍に冠たる、争勝するのは難しい。しばらく兵を止め鋭を養い、徐に計策をもってこれを縻(つな)ぎとめれば克てぬはずがない」と説いたが、無忌は聞かず果たして桓振に敗れ、尋陽に退いて舟甲を繕い治め、再び夏口へ進軍した。
偽鎮軍将軍馮該が夏口の東岸を戍り、揚武将軍孟山図が魯城に拠り、輔国将軍桓仙客が偃月塁を守っていた。毅が魯城を攻め、道規・無忌が偃月を攻め、ともにこれを克ち、仙客・山図を生け捕った。その夕、該は逃走、義軍は進んで巴陵を平定した。謙・振は使者を送り荆江二州を割いて晋帝に帰そうとしたが許されなかった。ちょうど南陽太守魯宗之が挙兵し襄陽を攻めると、偽雍州刺史桓蔚は江陵に逃げ、宗之は紀南まで進んだ。振は自ら赴いてこれを拒み桓謙に留守を委ねた。時に毅・道規はすでに馬頭に次していたので馳せて謙を襲い、謙は敗走、即日江陵城を克った。振は宗之を大破して帰ったが、城がすでに陥ちたと聞いて逃げた。無忌は天子を翼衛して京師に還り、道規は夏口に留まった。江陵平定にあたり、道規は毅を元功、無忌を次功とし、自らはその末に置いた。輔国将軍に進号、督淮北諸軍事・并州刺史・義昌太守は元のまま。時に荆・湘・江・豫にはなお桓氏の残党が屯結していたが、本官のまま督江州の武昌・荆州の江夏・随郡・義陽・綏安・豫州の西陽・汝南・潁川・新蔡九郡諸軍事に進み、適宜これを剪撲しことごとく平定した。義勲により華容県公・食邑3千戸に封ぜられた。
臨川烈武王道規――荆州鎮守と盧循討伐
使持節都督荆寧秦梁雝六州・司州の河南諸軍事・領護南蛮校尉・荆州刺史(将軍は元のまま)に遷り、南蛮の号は殷叔文に譲ったが、叔文が誅されると再び自ら領した。政に善く、刑政は明理で士民は畏れつつも愛した。劉敬宣が蜀を征して勝てなかった際、道規は督統の任にありながら建威将軍に降格された。
盧循が京邑に迫ると道規は司馬王鎮之・揚武将軍檀道済・広武将軍到彦之らを遣り援に赴かせたが、朝廷は尋陽で賊党荀林に破られた。循はそこで林を南蛮校尉とし兵を配して勝ちに乗じ江陵を伐たせ、徐道覆がすでに京邑を克ったと揚言させた。桓謙は長安から蜀に入っていたが、譙縦は謙を荆州刺史とし厚く支援、大将譙道福とともに江陵に寇し、ちょうど林と合流、林は江津に屯し謙軍は枝江に屯し二方から迫った。荆楚の地は桓氏の旧縁が多く異心を懐く者も多かったが、道規は将士を集めて「桓謙は今近畿にいる、聞いた者の中には去就を計る者もいるだろう。我が東来の文武はことを済すに十分だ。去りたければ元来禁じない」と告げ、夜に城門を開き明けまで閉じなかったところ、衆はみな畏服し去る者はなかった。雍州刺史魯宗之が数千の衆を率い襄陽から駆けつけ、「宗之の真意は測れない」と言う者もいたが、道規は単騎でこれを迎え、宗之は感激し悦んだ。議者は檀道済・到彦之に宗之と共に(荀林らを)撃たせようとしたが、道規は「盧循はいまだ中流を隔てて同異を煽り、桓謙・荀林は互いに首尾を成し人々は危惧を懐き心が固まっていない。成敗の機はこの一挙にある、私自ら行かねば決しない」と述べ、宗之に留守を委ね腹心として諸軍を率い謙を攻めた。諸将佐は皆強く諫めて「今遠く出て謙を討てば勝利は必ずしも保証できない、荀林は江津の近くにいて人の動静を伺っている、もし城を攻めてくれば宗之では必ずしも守り切れず、万一失敗すれば大事が去ってしまう」と言ったが、道規は「諸君は兵機を知らぬ。荀林は愚か者で他に奇計はない、私が遠く去っていないうちは決して城に向かわぬだろう。私は今謙を討ちに行けば速やかに克てる、疑いためらう間に自ら帰るはずだ。謙が敗れれば林は胆を潰し、どうして来る暇があろうか。宗之が独りで守るのも数日程度なら支えられぬはずがない」と述べ、南蛮校尉の印を解いて諮議参軍劉遵に授け、馳せて謙を攻めさせた。水陸ともに進み謙は大敗、単舸で走り林の元へ下ろうとしたが追撃し斬った。浦口まで帰ると林もまた奔散し、劉遵は軍を率い林を巴陵まで追って斬った。初め謙が枝江に至った際、江陵の士庶の多くが謙に城内の虚実を知らせる書を送り内応を謀っていたが、この時参軍曹仲宗がこれらを検出、道規はすべて焼き見ずに済ませたため、衆は大いに安堵した。征西将軍に進号。
これより先、桓歆の子道兒が江西に逃れ義陽郡を攻め、盧循と結んでいた。循は蔡猛を遣り道兒を助けたが、道規は参軍劉基を遣り大薄で道兒を破り、陣中で猛を斬った。徐道覆が3万の衆を率い破冢に至った際、魯宗之はすでに襄陽に帰っており召しても間に合わず、人情は大いに動揺した。あるいは循がすでに京師を平定し道覆を刺史に上げたと伝えられたが、江漢の士庶は焼書(内応の証拠を焼いた)の恩に感じ、もはや二心を抱かなかった。道規は劉遵を遊軍とし自ら豫章口で道覆を拒んだ。前駆が失利すると道規は壮気ますます奮い三軍を激揚し、遵が外から横撃してこれを大破、1万余級を斬り水に赴いて死んだ者はほとんど尽きた。道覆は単舸で盆口に走り帰った。初め遵を遊軍とした際、衆は皆「強敵が眼前にいるのに衆が少ないことを憂うべきなのに、兵力を割いて無用の地に置くべきではない」と言ったが、道覆を破ると果たして遊軍の力によるものであり、衆はここに服した。遵は字を慧明といい、臨淮海西の人、道規の従母(いとこ)の兄で蕭氏の舅にあたる。官は右将軍・宣城内史・淮南太守に至り、義熙十年(414年)卒、撫軍将軍を追贈され監利県侯・食邑700戸を追封された。
臨川烈武王道規――薨去と嗣子義慶
道規は征西大将軍・開府儀同三司に進号、散騎常侍を加えられたが固辞し、ほどなく病に臥した。都督豫章江二州・揚州の宣城・淮南・廬江・歴陽・安豊・堂邑六郡諸軍事・豫州刺史(持節・常侍・将軍は元のまま)に改められたが病のため拝命せず、八年(412年)閏月、京師で薨じた、時に43歳。侍中・司徒を追贈され班剣20人を加えられ烈武公と諡された。桓謙を破った功により南郡公・食邑5千戸に進封された。高祖が受命(帝位)すると大司馬を追贈され臨川王に追封、食邑は先のまま。道規に子がなく、長沙景王(道憐)の第二子義慶を嗣とした。初め太祖(文帝)が幼少の頃道規に養育されており、高祖は太祖にこれを継がせようとしたが、礼に二継無しとされたため太祖は本(長沙王家)に還り、義慶が荆州廟主として定められ江陵に随行すべきこととなった。太祖は詔して「道勲を褒め崇めるのは経国の盛典であり、尊親追遠は心の隆なる所である。故侍中大司馬臨川烈武王(道規)は道を体し欽明、至徳淵邈、叡哲は天より自(いず)る孝友の資質を光り備え、協規翼賛して業を輔け、威を振るい討伐しては梟鯨を剪り、妖逆が交々侵し方難が窮まった時には、王神算独運し霊武宏発、内外を輯寧し群凶を誅覆した。功は江漢に及び勲は微管(管仲)を超え、遠猷は二南に等しく英雄は両献に勝る」と述べ、丞相を追崇し殊礼(鸞輅九旒・黄屋左纛・節鉞・前後部羽葆鼓吹・虎賁班剣百人、侍中は元のまま)を給し、長沙太妃檀氏・臨川太妃曹氏の薨後にも同様の祭礼を給した。
義慶――生涯
義慶は幼くして高祖に知られ、常に「これは我が家の豊城(良材の意)だ」と言われた。13歳で南郡公の爵を襲い給事に除せられるも拝さず、義熙十二年(416年)長安征討に従い、還って輔国将軍・北青州刺史(赴任せず)に転じ、豫州諸軍・豫州刺史(のち督淮北諸軍事・豫州刺史、将軍は元のまま)を歴任。永初元年(420年)臨川王を襲封、侍中に徴され、元嘉元年(424年)散騎常侍・秘書監に転じ、度支尚書に徙り丹陽尹に遷り輔国将軍・常侍を加えられた。時に民の黄初の妻趙氏が子の嫁を殺し、恩赦に遇い流刑を免れたが孫の復讐を避けねばならなくなった件で、義慶は「『周礼』では父母の仇は海外にまで避け、市朝で会っても兵を返さず戦うとある。これは莫大な冤罪であり理として奪えぬからだ、悲しみを含み戈を枕にしても義として必ず報いるべきである。しかし親戚が殺され骨肉相残なう場合は道が常憲に反し、記に定準がない。法外に求め人情をもって裁くべきだ。礼には過失を宥す道があり、律には祖を讐とする文がない。趙氏の暴挙はもとより酒によるもので、その心を論ずれば実は老いぼれの妄動、王母らは路人同然の深讐であり、この孫が愧を忍び悲しみを銜んで子の義に背かず、天を共にし域を同じくしても孝道に欠けることはないと考える」と裁定した。六年(429年)、尚書左僕射を加えられ、八年(431年)、太白星が右執法を犯すと義慶は災禍を懼れ外鎮を願い出た。太祖は詔して「玄象は茫昧で判じ難く、史家の占いもそれぞれ異同がある。兵星が王時を犯すのは誅されるべき者があることを主るものであり、これを言えばますます懼れる必要はない。鄭僕射(鄭鮮之)が亡くなった後にも左執法に変異があったが王光禄は今も無事である。日食は三朝(元日)の至忌とされるが晋の孝武帝の初めにこの異変があった、あれは凡庸な君主の代であったがそれでも何事もなかった。天道は仁を輔け善に福す、あなたはさして憂懼するに足りない。兄と後軍はそれぞれ内外の任を受け、もとより城を維(たも)ち表裏をなす、これが盛衰の由来である。もし天が必ず災いを降すというなら千里逃げて避けられようか。ましてどこに行けば吉凶が定まるか分からず、都にいれば不測の事態もあろうが、ここを去れば必ず利貞を保てるとどうして知れよう」と諭した。義慶は固く僕射の辞任を求め、ついに許された。中書令を加えられ前将軍に進号、常侍・尹は元のまま。京尹(丹陽尹)を九年務め、使持節都督荆雍益寧梁南北秦七州諸軍事・平西将軍・荆州刺史として出た。荆州は上流の重地で兵は広く資実は朝廷の半ばを占めるため、高祖は諸子をここに置いた。義慶は宗室の中でも令名美質であったため特にこの任を授けられた。性は謙虚で、着任・離任の際に贈られる物を一切受けなかった。
十二年(435年)、内外の百官に人材を挙げさせる詔が出され、義慶は上表し、前臨沮令新野の庾実(母の喪に礼を過ぎて痩せ、父の喪にも孝を尽くした)、前徴奉朝請武陵の龔祈(恬淡で簡潔、墳籍に沈潜する人物)、処士南郡の師覚(才学明敏、操は清く介あり)らを推薦した。義慶は民政に心を留め、州の統内で官長の親が老いて赴任先に随行できない場合、五人の吏を家に食糧を送るために遣ることを許した(先に王弘が江州刺史であった際にも同様の制があった)。荆州に8年在任し、西土は安んじた。『徐州先賢傳』十巻を撰して奏上し、また班固の『典引』にならい『典叙』を著し皇代の美を述べた。十六年(439年)、散騎常侍・都督江州の西陽・晉熙・新蔡三郡諸軍事・衞将軍・江州刺史(持節は元のまま)に改まり、十七年、本号のまま都督南兗州徐兗青冀幽六州諸軍事・南兗州刺史に遷り、ほどなく開府儀同三司を加えられた。性は簡素で嗜欲少なく文義を愛好、文辞は多くはなかったが宗室の模範たるに十分であった。歴任した藩鎮に浮淫の過ちはなかったが、晩節に沙門の供養に費用を費やしすぎた憾みがあった。若くして騎乗を善くしたが、長じて世路の艱難により馬に乗らなくなり、文学の士を招聚し、近遠より必ず集まった。太尉袁淑は当代文才随一で、義慶が江州にあった際に衛軍諮議参軍として招いた。その他呉郡の陸展、東海の何長瑜、鮑照らもみな辞章の美をもって佐史国臣に引かれた。太祖は義慶への書に常に意を用いて斟酌したという。
鮑照は字を明遠といい文辞は贍逸、かつて古楽府を作り甚だ遒麗であった。元嘉中、黄河と済水がともに澄み、当時これを美瑞としたため、照は「河清頌」を作りその序も工緻であった。世祖は照を中書舎人としたが、上(孝武帝)は文章を好み自らに及ぶ者なしと自負しており、照はその意を悟って以後わざと鄙俗な言い回しや冗長な句を多く用いた文を書くようになったため、当時の人は照の才が尽きたと言ったが実はそうではなかった。臨海王子頊が荆州にいた時、照はその前軍参軍として書記の任にあたったが、子頊が乱に敗れると乱兵に殺された。
義慶は広陵にあった時、病を患い白虹が城を貫き野の麕(のろじか)が府に入る異変があり、義慶は心中これを甚だ嫌い、固く帰還を願い出た。太祖は許し州を解いて本号のまま朝に還した。二十一年(444年)、京邑で薨、時に42歳。侍中・司空を追贈され康王と諡された。子の哀王燁(字景舒)が嗣ぎ通直郎に至ったが元凶に殺され散騎常侍を追贈された。子の綽(字子流)が嗣ぎ歩兵校尉に至ったが昇明三年(479年)反して誅に伏し国は除かれた。綽の弟綰は早卒。燁の弟衍は太子舍人、衍の弟鏡は宣城太守、鏡の弟穎は前将軍、穎の弟倩は南新蔡太守。
劉遵考――経歴
遵考は高祖の族弟である。曾祖の淳は皇曾祖武原令混の弟で正員郎に至った。祖父巖は海西令、父涓子は彭城内史。遵考は初め振武参軍となり盧循討伐に従い郷侯に封ぜられ、建威将軍・彭城内史を経た。高祖の諸子がまだ幼く宗室に人材が乏しい中、遵考のみが長安平定の後、督并州司州の北河東・北平陽、北雍州の新平・安定五郡諸軍事・輔国将軍・并州刺史(河東太守を領し蒲坂に鎮した)を務めた。関中を失うと南に還り遊撃将軍に除せられ冠軍将軍に遷った。晋帝が譲位して秣陵宮に居した際、遵考は兵を領してこれを防衛した。高祖が即位すると推恩の詔が下され「遵考は服属の親、国戚は遠くなく宗室に人が多くない、寵爵を蒙るべきだ」として営浦県侯・食邑500戸に封ぜられ、本号のまま彭城・沛二郡太守となった。景平元年(423年)、右衛将軍に遷り、元嘉二年(425年)、征虜将軍・淮南太守として出、翌年使持節領護軍に転じ殿省に入直、のち使持節督雍梁南北秦四州・荆州の南竟陵・順陽・襄陽・新野・随六郡諸軍事・征虜将軍・寧蛮校尉・雍州刺史・襄陽新野二郡太守として出た。
遵考の政は厳暴で聚歛に節がなく、五年(428年)有司に糾されたが上は問わず赦し都に還した。七年(430年)、太子右衛率に除せられ給事中を加えられ、翌年督南徐兗州の江北・淮南諸軍事・征虜将軍・南兗州刺史・広陵太守を領し、また侍中・領後軍将軍に徴され太常に徙った。九年(432年)、右衛将軍に遷り散騎常侍を加えられ、十二年(435年)、厲疾(重い病)により対を待たず免ぜられ常侍を免ぜられたが侯として右衛を領し、翌年本官に復した。十五年(438年)、徐州大中正・太子中庶子(本官は元のまま)を兼ね、同年監徐兗二州・豫州の梁郡諸軍事・前将軍・徐兗二州刺史(赴任せず)となったが留まり侍中・領左衛将軍となり、翌年使持節監豫司雍并四州・南豫州の梁郡・弋陽・馬頭・荆州の義陽四郡諸軍事・前将軍・豫州刺史(南梁郡太守を領す)として出た。二十一年(444年)、境内の旱で百姓が飢えた際、詔により賑給を加えるべきところ遵考は符旨を奉じず免官となったが、散騎常侍・五兵尚書に起用され、呉興太守(秩中二千石)に遷った。二十五年(448年)、領軍に徴され、二十七年(450年)、索虜が瓜歩に南下すると軍を率いて江上に出、節を仮せられ佐吏を置いた。三十年(453年)、再び使持節監豫州刺史として出た。元凶が弑立すると安西将軍に進号したが、元凶は外監徐安期・仰捷祖を遣り遵考を防守させた。遵考は安期らを斬り義兵を挙げ南譙王義宣に応じ、義宣は遵考に鎮西将軍を加えたが、夏侯獻が衆を率い瓜歩に至り世祖の様子を伺わせたため、再び免官となった。孝建元年(454年)、魯爽・臧質が反すると征虜将軍として起用され衆を率いて臨沂県に屯し、呉興太守に除せられた。翌年湘州刺史に徴されたが赴任前に尚書左僕射に遷り、三年(456年)丹陽尹に転じ散騎常侍を加えられ、再び尚書右僕射・太子右衛率を領し、翌年また領軍将軍・散騎常侍を加えられた。五年(458年)、再び尚書右僕射・金紫光禄大夫(常侍は元のまま)に遷り、翌年左僕射(常侍元のまま)に転じ、また徐州刺史大中正・崇憲太僕を領した。前廃帝即位後、特進・右光禄大夫(常侍・太僕元のまま)に遷り、景和元年(465年)督南豫州諸軍事・安西将軍・南豫州刺史として出た。太宗即位後、侍中・特進・右光禄大夫・領崇憲太僕(親侍30人を給せられる)となり、崇憲太后が崩じると太僕を解かれ余は元のまま。泰始五年(469年)、几杖を賜り大官から四時に珍味を賜り、疾病には太医から薬を給せられたが几杖は固辞した。後廃帝即位後、左光禄大夫に進み余は元のまま。元徽元年(473年)卒、時に82歳。左光禄大夫・開府儀同三司(侍中は元のまま)を追贈され元公と諡された。遵考は才能に乏しく、ただ宗室で疎遠でないという理由で歴朝に顕遇されたが、晩年は病を得て失明した。子の澄之は順帝昇明末に顕達した。澄之の弟琨之は竟陵王誕の司空主簿であったが、誕が反乱を起こした際その中兵参軍を求められても就かず数十日繋がれてもついに受けず、ついに殺された。黄門郎を追贈され、詔により吏部尚書謝荘がその誄(弔文)を作った。
遵考の従弟思考も歴朝に用いられ官は清顕を極め、豫章・会稽太守、益・徐州刺史を歴任、凡そ10郡3州を経て、泰始元年(465年)散騎常侍・金紫光禄大夫として卒、時に75歳、特進・常侍・光禄は元のまま追贈された。
史論
史臣曰く、余妖(盧循)が内で反し偏った衆が西に臨み、荀林・桓謙が交々迫り、荆楚の勢いは危うかった。もし上略が尽きず一算(はかりごと)の遺漏がなければ、城が壊れ境を圧し上流の難が方に結ばれても、敵は三分の二を有し北に向かって天下を争う形勢となり、我らの全勝の道はどうなっていたか分からなかった。烈武王(道規)は群才を览(み)て盛策を挙げ、一挙にして勁寇を磔(はりつけ)にした、これは天の時のみならず人の謀でもあった。天から与えられた年数が長くなく、大業を最後まで見届けることができなかったのは惜しむべきことである。