宋書卷五十 列傳第十 張興世

出自と初期の武勇

張興世は字を文德といい、竟陵竟陵の人である。もとは単名で世といったが、太宗が興世の字を加えた。若い頃家は貧しく、南郡の宗珍之が竟陵郡に赴任した際、興世はこれに客として依った。竟陵に旧来置かれた軍府から参軍・督護に補されたが就かず、白衣のまま王玄謩の蛮討伐に従軍、戦うたびに捕獲があり、玄謩の旧部曲の諸将にも及ばぬ働きぶりで、玄謩はこれを大いに奇とした。興世は都に還り太祖にその胆力を語られた。のち世祖が尋陽に鎮した際、南中参軍・督護に補され、元凶討伐に入り柳元景に隷属して前鋒となった。事平定後、員外将軍に転じ従隊を領した。南郡王義宣が反すると再び玄謩に従い梁山に出て戦功があり、建平王宏の中軍行参軍・領長刀に除せられた。また西平王子尚に隷属して直衛となったが、子尚が入台した際、武器を棄てて逃げた罪に坐し獄に下され免官、再び白衣で直衛を務めた。大明末、員外散騎侍郎に除せられ、ついで宣威将軍・隨郡太守に除せられたが赴任前に太宗が即位、四方が反乱すると興世は龍驤将軍に進号し水軍を領して南賊を赭圻で拒んだ。

錢谿の奇策

湖口に二城を築き、偽龍驤将軍陳慶が舸を率いて前方の遊軍となっていたが、興世は龍驤将軍佼長生・董凱之とともにこの二城を攻め克ち、慶を撃った。慶は大敗し投水死者数千人に及んだ。時に台軍は赭圻に拠り、南賊は鵲尾に屯して相持し久しく決しなかった。興世は「賊は上流に拠り兵は強く地の利を得ている。今我らは相持しても余力があるが敵を制するには足りない。今もし兵数千を密かに出しその上流に潜行し険に依って自ら固め、適宜断截すれば、賊は首尾ともに周章し進退窮まり、中流が一たび塞がれば糧運も自ずと窮まる。敵を制する奇策としてこれに勝るものはない」と建議し、沈攸之・呉喜もこの計に賛同した。

時に豫州刺史殷琰が壽陽に拠り同逆し劉勔に攻められていたが、南賊は龎孟虬に軍を率いさせ琰を助けようとした。劉勔は使者を送り急ぎ援軍を求め、建安王休仁は興世を遣り救おうとしたが、沈攸之に問うと攸之は「孟虬は蟻ほどの寇に過ぎず何もできない。別将に馬歩数千を遣れば十分に相制することができる。もし意外なことがあれば江西でこれを餌にすればよい。上流の攻略こそ興世の行くべき道、安危の大機であり必ず輟(や)めるべきではない」と言い、そこで段仏栄らを遣り勔を援けた。興世は所領を率い直ちに大雷を取ろうとしたが軍旅がまだ集まらず分張するに足らなかった。ちょうど薛索児が平定され、太宗は張永に歩騎5千を留めて盱眙を戍らせ、残りの二万をすべて南討山陽に遣った。まもなく平定され、阮佃夫が率いた諸軍もすべて還り南伐の衆軍が大いに集まったので、戦士7千を興世に配した。

興世はそこで軽舸を上流に遡らせ、一二日でまた回還させることを繰り返し、賊にこれを備えさせないようにした。劉胡は興世が上流を狙っていると聞き笑って「私でさえ彼らを越えて下って揚州を取ろうとはしない、張興世が何者だというのか、軽々しく我が上流を占拠しようとは」と言った。興世は攸之らに「上流にはただ銭谿があるのみで、地は険要、江もまた狭く、大軍から遠くない。応援に難はない。江は洄洑(渦巻く流れ)があり、船が下れば必ず岸に泊まらざるを得ない、横浦があり船を隠すによい、舸二三艘が適当だ」と言い、夜に湖口を渡り散頭に至り、また下り引き返すそぶりを見せて疑わせた。その夜四更に風が出たため帆を挙げて直進した。賊もまた胡霊秀ら諸軍を東岸に遣り翼を並べて上らせたが、興世は夕方景江浦に留まり、賊も進まなかった。夜、密かに黄道摽に70艘を率いさせ直ちに銭谿に拠らせ営を立て柴で城を築かせ、明朝興世は軍を率いて至り一同を集め一晩留まった。

劉胡は自ら水歩26軍を率い、平旦に攻めてきた。将士は迎撃しようとしたが興世は「賊は来るのがまだ遠く気は盛んで矢は激しい、盛んな気は力が尽きればかえって衰えやすい、これが曹劌が斉を破った所以だ」と禁じ、将士を動かさせず、城を治めることに専念した。まもなく賊は近づき、船が洄洑に入ったところで興世は壽寂之・任農夫に壮士数百を率いて撃たせ、衆軍が相継いで進み、胡はついに敗走、斬った首級は数百、投水死者は甚だ多かった。胡は軍を収めて下った。時に興世の城壘はまだ固まっておらず、司徒建安王休仁は賊が力を合わせて再び銭谿を攻めるのを慮り、その形勢を分散させるため沈攸之・呉喜・佼長生・劉霊遺らに皮艦20艘で賊の濃湖を攻めさせ、苦戦連日、斬獲は千を数えた。この日劉胡は果たして衆軍を率いてさらに興世を攻めようとしたが、興世まで数十里の地点で袁顗が濃湖の急を聞き遽かに追い戻したため、銭谿の城柴はこれにより立てられた。賊は連戦して次第に敗れ、興世はさらにその糧道を遏(せ)いた。尋陽から送られる運送は南陵に至って下ることができず、賊衆は次第に飢えた。劉胡は顗の安北府司馬、偽右軍沈仲玉に千人を率いさせ歩いて南陵を取らせ糧運を迎えさせた。仲玉は南陵に至り米30万斛、銭布数十艘を得て榜を立てて城とし、突破して貴口まで行こうとしたが敢えて進まず、間信を遣り胡に報せ重軍の援接を求めた。興世・壽寂之・任農夫・李安民ら3千人が貴口に至り仲玉と遭遇、終日交戦して仲玉は敗走し顗の営に還った。その資実はことごとく虜(奪)われ賊衆は大敗し、胡は震え軍を棄てて遁走、顗もまた奔散した。興世は軍を率いて追討し、呉喜とともに江陵を平定した。

晩年

左軍将軍に遷り、ほどなく督豫司二州・南豫州六郡諸軍事となり、作唐県侯・食邑千戸に封ぜられた。遊撃将軍に徴され海道より北伐、輔国将軍を仮せられ節を加えられ佐吏を置いた。功なく還り、四年(468年)太子右衛率に遷り、また本官のまま驍騎将軍を領し左衛将軍沈攸之とともに員に参ぜられた。五年、左衛将軍に転じ、六年、中領軍劉勔が広陵に鎮するにあたり興世が権りに領軍を兼ねた。泰豫元年(472年)、持節督雍梁南北秦郢州の竟陵・随二郡諸軍事・冠軍将軍・雍州刺史となり、ほどなく寧蛮校尉を加えられた。桂陽王休範が反した際、興世は軍を朝廷に赴かせようとしたが発する前に事は平定され、征虜将軍に進号した。廃帝元徽3年(475年)、通直散騎常侍・左衛将軍に徴され、五年、疾病のため光禄大夫に徙り常侍は元のまま。順帝昇明二年(478年)卒、時に59歳、本官を追贈された。

興世は沔水のほとりに住んでいた。沔水は襄陽から九江まで二千里の間、もとより洲嶼(中州)がなかったが、興世が生まれた時その家の門前の水中に一夜にして洲が生じ、年々次第に大きくなり、興世が方伯(州刺史)となる頃には洲の上に十余頃の広さになっていたという。父の仲子は興世の出世により給事の位に至った。興世は父を襄陽に連れて行こうとしたが、仲子は郷里を愛して去ろうとせず、興世に「私は田舎の老人だが鼓角(軍楽)を聞くのが好きだ、一部を送って田を巡る時に吹いてくれ」と言った。興世はもとより恭謹で法憲を畏れており、「これは太子の鼓角であり、田舎の老人が吹くべきものではない」と諭した。興世が墓参りをしようとした際、仲子は「お前の護衛が多すぎる、先人がきっと驚き怖がるだろう」と言い、興世は随従を減らしてから行った。興世の子欣業が爵位を嗣ぐはずであったが、ちょうど斉の受禅で国は除かれた。

史論

史臣曰く、兵は元来詭道(だます術)であり、勝利は奇策の運用にある。二帝(明帝と晋安王子勛)が雄を争った際、天と人の分かれ目はまだ定まらず、南北の連兵は互いに阻み進めぬこと半年に及んだ。これはまさに趙壁を抜いた旗の機(井陘の戦い)や官渡の潜師の日にも比すべきもので、鵲浦で戈を投げ出させたのは実に興世が奇策を用いた力によるものである。旆を建て組を垂れる(将たる栄誉を得る)のも、あながち偶然ではないのである。