宋書卷五十二 列傳第十二 庾悅

庾悅

字は仲豫、潁川鄢陵の人である。曾祖亮は晋太尉、祖義は呉国内史、父蘊は淮西中郎将・豫州刺史。悦は少くして衛将軍琅邪王行参軍・司馬に任じ主簿に徙り右長史に転じた。桓玄が輔政し豫州を領すると悦は别駕従事史に遷り、のち驍騎将軍に遷った。玄の簒位で中書侍郎に徙った。高祖が京邑を定めると武陵王遵の承制で寧遠将軍・安遠護軍・武陵内史となったが病で去職。鎮軍府の版により咨議参軍、のち車騎従事中郎に転じ、劉毅が撫軍司馬に招いたが応じず、車騎中軍司馬に遷った。広固討伐に従い誠力を尽くした。盧循が京都に迫ると督江州豫州の西陽・新蔡・汝南・潁川、司州の松滋五郡諸軍事・建威将軍・江州刺史として東道から鄱陽に出た。循の将英糾が千余人で五畝嶠を断ったが悦はこれを破り、進んで豫章に拠り循の糧援を絶った。

初め劉毅の家は京口で貧しかった頃、郷里の士大夫としばしば東堂に集まり弓を射ていた。悦が司徒右長史であった時、たまたま京に至り府州の僚佐と東堂に出ると毅がすでに先に来ていた。毅は悦に「私は久しく落魄しており、ここで一遊するのはなかなか難しい、あなたのような如意の人はどこでも思うようにできよう、どうかこの堂を私に譲ってはくれぬか」と伝えたが、悦はもとより豪放な性格で、答えず前へ進み、毅の周りの人々はみな避けたが毅だけはそのまま射を続けた。悦の厨饌は豊かに用意されていたが毅には及ばさず、毅もいつまでも去らず、悦は不快であった。毅はまた「私は今年まだ子鵞(若鵞)を得ておらぬ、残った炙り肉を恵んではもらえぬか」と伝えたが悦はまた答えなかった。

盧循平定後、毅は江州都督を求め、江州は内地で治民を職とすべきであり軍府を置くべきでないとして上表し、「臣は天が盈虚をもって道となし、治は損益をもって義となすと聞く。時が否(ふさ)がっても政を改めず、民が凋(おとろ)えても事を損じなければ、己に迫る危急を救い塗炭にある民を将に絶える淵から拯うことはできない。近頃、戎車がしきりに動き干戈が境を溢れ、江州は一隅の地でありながら逆順の衝に当たり、力は弱く民は疲弊し、器や運用も継ぎがたい。桓玄以来、駆り立てられ残り毀たれ、男は養われず女は嫁ぐ相手もなく、逃亡去就も深遠を避けぬまでに至ったのは、財が尽き力が竭きたゆえである。もし心を曲げて理を矜(あわ)れみ改めなければ、遺る者なき歎きがまもなく及ぶだろう。臣は謬って統を増やされ痛感し慨嘆している。そもそも官を設け職を分けるのは軍と国とで用途が異なる、牧民は事を息(や)めることを大とし、武略は事を済すことを先とする。今これを兼ね領するのは権事から出たものだが、これに拠ること久しく常則となってしまった。江州は腹心の地にあり揚豫を憑接し藩屏の頼るところ、実に重複である。昔胡寇が縦逸し朔馬が江に臨んだ際の抗禦の宜しきは権計から出たもので、温嶠のような明達な者でさえその弊を悟っていたと詳しく論じられている。今江右の地は戸数数十万に満たず地も数千里を超えぬのに、綂司(軍府)が鱗次(並び立つ)し、いまだ減省されない、大きく言えば国の恥である。況して軍のない地に軍府がなお置かれ、文武・佐吏の費用は一つに留まらぬ、これが経国の大情、湯を揚げて火を去るようなものと言えようか。州郡は江に沿い民戸は遼落(まばら)、加えて郵亭は険阻で風波を畏れ、転輸の往還には常に滞りがある。これもまた利をもって弊を済すという道ではない。愚見では軍府を解いて治を豫章に移し、十郡の中に処し簡素で恩恵深い政を行えば、数年で生気を取り戻すはずである。属県が凋散しているのもなお存する分があり、役調の送迎も休止すべき所は随宜に併減し衆費を簡すべきである。刺史庾悦は自ら州部に臨み恤民の誠意があるが、綱維(統治の枠組み)を改めねば、綱目の理する所ではない。尋陽は蛮に接し防遏を要する、州府の千兵をもって郡戍を助けるべきだ」と述べた。これにより悦の都督・将軍の官は解かれ、刺史として豫章に移鎮、毅は親将趙惔に千兵を領させ尋陽を守らせ、建威府の文武3千はことごとく毅の府に入った。毅の符檄は厳峻でしばしば悦を挫辱し、悦は志を得ず背に疽を発し、豫章に着いて数日で卒した、時に38歳。征虜将軍を追贈され、広固の功により新陽県五等男を追封された。