宋書卷四十二 列傳第二 劉穆之
出自と生い立ち
劉穆之、字は道和、小字は道民。東莞莒(きょ)の人で、漢の齊悼惠王劉肥の後裔にあたる。代々京口に住んだ。若くして読書を好み博覧多通、済陽の江敳(建武将軍・琅邪内史)に見出され府主簿となった。かつて高祖(劉裕)と共に海を渡る夢を見、白龍二頭が船を挟んで護るのを見た故事がある。
高祖への出仕
高祖が京城を平定した際、何無忌が「府主簿を急ぎ得たいがどうすべきか」と問うと、高祖は「劉道民(穆之)を措いて他にない」と答え、使者を馳せて召した。折しも穆之は京城の騒動の声を聞いて外に出、使者と行き会って久しく無言のまま考え込み、帰宅して着物を仕立て直して高祖に謁見。軍吏の人選を問われると「貴府創設のこと、時が急なれば私が適任」と申し出、その場で任じられた。高祖は「卿が自ら屈してくれるならば、我が事は成る」と笑ったという。
穆之は高祖の腹心として万事を委ねられ、竭節尽誠した。当時、晋の綱紀は弛緩し豪族が横行していたが、穆之は時宜に応じて矯正し、旬日を経ずして風俗を改めた。尚書祠部郎、のち府主簿・記室録事参軍・堂邑太守を歴任。桓玄討伐の功により西華県五等子に封ぜられた。
義熙年間の枢機
義熙3年(407年)、揚州刺史王謐が死去。高祖が入輔すべき局面で、劉毅らは反対し謝混を推した。尚書右丞皮沈が高祖に朝議の内容を伝える前、穆之は密かに高祖へ「皮沈の言に従うべからず」と進言。高祖に理由を問われると、穆之は「晋朝の失政は久しく、桓玄簒奪により天命はすでに移った。功高く勲重い今、謙譲して守蕃の将にとどまれば、権柄を他人に譲ることになり、後の危難は計り知れぬ。揚州は根本の地、他人に授けるべきでない」と説いた。高祖はこれに従って入輔した。
その後、広固征討、盧循討伐に際しては幕中で謀議・決断を担った。劉毅らは穆之の寵愛を妬み、その権重を非難したが、高祖はますます信頼を深めた。穆之は民間の風聞を逐一高祖に報告し、賓客を厚くもてなして耳目とし、朝野の動静を把握した。ある人が「隠さず何もかも報告するのは危うい」と諫めると、穆之は「主君の明察であればいずれ知れることになる。私が先んじて知らせるのは公の恩義に応えるためだ。張遼が関羽の思いを曹操に告げたのもこの理による」と答えた。
高祖の書は拙かったが、穆之が「小事とはいえ四方に示すものゆえ留意を」と勧めても改まらなかったため、「大字で書けばよい、大きさは嫌われず、名も美しく響く」と助言し、高祖はこれに従い一紙に六、七字で済ませた。人物推薦については「進めるべきでなければ止めぬ」を方針とし、「荀彧の挙善には及ばぬが、不善は挙げぬ」と自負した。朱齢石と共に尺牘に長じ、高祖の前で共に返書を認めた際、穆之は百通、齢石は八十通をこなし、応対に遅滞がなかった。
中軍太尉司馬に転じ、義熙8年(412年)丹陽尹を加官。高祖が劉毅討伐で西征した際、諸葛長民に留府を任せたが、高祖は長民を疑い、穆之を留めて補佐させ建威将軍を加え佐吏・実力を配した。長民は異心を抱きつつ発せられず、穆之に「太尉と私が不和との噂があるが」と問うと、穆之は「高祖は老母幼子をあなたに委ねているのに、少しも疑わぬのはなぜか」と答え、長民は安堵した(のちに謀反発覚し誅殺)。義熙10年(414年)、穆之は前将軍に進み、前軍府・年布万匹・銭三百万を賜った。
義熙11年(415年)、高祖の司馬休之討伐の西征に際し、中軍将軍道憐が留任を掌ったが、事の大小すべて穆之が決した。尚書右僕射・領選・将軍・尹はもとのまま。義熙12年(416年)、高祖の北伐に際し、世子(劉義符)を中軍将軍・監太尉留府とし、穆之は左僕射・監軍中軍二府軍司・将・尹・領選をすべて兼帯、甲仗五十人を賜り東城に居住。内は朝政を総べ、外は軍旅を供給、決断は流れるごとく滞りなく、賓客が輻輳し訴求は百端に及んだが、目で訴訟を見つつ手で書簡に答え、耳で聞きながら口で応対し、混同せず処理した。多忙の中でも賓客との談笑を欠かさず、暇があれば自ら書写・校訂に励んだ。
人となりと薨去
性は奢侈を好み、食事は方丈(豪華な食卓)、朝には十人分の饌を用意し、賓客をもてなし独りでは食事をとらなかった。かつて高祖に「私は元来貧賤の家に生まれ生計に乏しかったが、栄達後も倹約を旨とし、朝夕の費えのみやや豊かにした。それ以外は一切公のために用いた」と語った。
義熙13年(417年)、疾篤くなり朝廷は黄門郎を遣わして見舞わせたが、11月に卒去、享年58。高祖は長安で訃報を聞き驚愕・哀悼すること数日、関中経略の意志を撤して彭城へ急行した。司馬徐羨之を留任の代理としたが、朝廷の大事は本来穆之に諮る慣例であり、その決裁は北の高祖のもとへ悉く諮られた。前軍府の文武二万人のうち三千を羨之の建威府に、残りを世子の中軍府に配した。
穆之は死後、散騎常侍・衛将軍・開府儀同三司を追贈された。高祖は天子への上表で穆之の功績(義熙草創以来の内外の謀猷・庶政、艱難の時期の匡翼の功)を称え、正司の追贈と封地の加増を願い出た。その結果、侍中・司徒・南昌県侯・食邑千五百戸を追贈された。
高祖の受禅(宋建国)に際し、佐命の元勲として詔があり、王鎮悪(荊郢の捷・北伐の勲)と共に南康郡公・食邑三千戸に進められた。諡は文宣公。太祖元嘉9年(432年)、高祖廟庭に配食。元嘉25年(448年)4月、車駕が江寧に行幸し穆之の墓を経た際、詔により祭祀が行われた。
子孫
三子あり。長子慮之は員外散騎常侍まで務め早世、子の邕が嗣いだ。邕は南康相在任中、河東王歆之と元会で同座した際、歆之が孫皓の故事を引いて「昔は臣、今は肩を並べる」と揶揄した逸話がある。邕は瘡痂(かさぶた)を好んで食する奇癖があり、孟霊休の瘡痂を落ちる前に取って食し驚かれた話が伝わる。邕は南康国内の史(属吏)二百人余りを、罪の有無を問わず鞭打たせ、その瘡痂を膳に供したという。子の肜が嗣いだが、大明4年(460年)、刀で妻を傷つけた罪で爵位を奪われ、弟彪が跡を継いだ。斉の受禅後、南康県侯に降格、食邑千戸。
次子式之、字延叔、易に通じ士を好んだ。相国中兵参軍・太子中舎人・黄門侍郎・寧朔将軍・宣城淮南二郡太守を歴任したが、在任中に贓貨(不正蓄財)が発覚。揚州刺史王弘が検校の従事を派遣した際、式之は開き直って「私は国家に多少の功があるのに数百万銭を偸んで何が悪い」と豪語した逸話が記される。太子右率・左衛将軍・呉郡太守を経て卒官、征虜将軍を追贈、関洛従軍の功で徳陽県五等侯に封ぜられ、諡は恭侯。
子に敳・衍・瑀ら。瑀は字茂琳、太祖に才気を認められ、始興王濬の別駕従事史となったが、性は人を見下し、顧邁との確執(邁の密事漏洩を濬に告発した逸話)がある。その後従事中郎・淮南太守、益州刺史、青州刺史を歴任し、元凶劉劭の弑逆に際しては義兵を起こし荊州に軍資を送った。世祖即位後、御史中丞となり南郡王義宣の反逆に強く反対、義宣の丞相左司馬となった後、梁山で官軍に投降した功で司徒左長史・御史中丞に転じ、王僧達を弾劾するなど気鋭ぶりを示した。侍中を望んだが叶わず益州刺史を望んで許されたが、赴任後は不満を抱き、顔竣への書簡で朱脩之を「三世叛兵」と揶揄した逸話が残る。妻を奪った罪で免官後、東陽太守・呉興太守を歴任、侍中何偃との確執(何偃の死を喜び歓躍した逸話)を経て、疽が背に発病、何偃の訃報を聞いて歓喜し叫んだ直後に卒去。諡は剛。子の卷(南徐州別駕)・藏(尚書左丞)。
穆之の末子貞之は中書黄門侍郎・太子右衛率・寧朔将軍・江夏内史で卒官、子の裒は始興相在任中、贓貨の罪で東冶に繋がれた。穆之の娘は済陽の蔡祐に嫁いだ。