宋書卷四十二 列傳第二 王弘
出自と生い立ち
王弘、字は休元、琅邪臨沂の人。曾祖父は王導(晋丞相)、祖父は王洽(中領軍)、父は王珣(司徒)。若くして学を好み清恬の名があり、尚書僕射謝混と親交した。弱冠で会稽王司馬道子の驃騎参軍主簿となる。当時農務が停滞し末業(商業等)が盛んであったため、屯田設置を建議する上表を行った。南局諸冶の募吏数百人を農耕に回せば功利百倍になるとし、軍器に必要な分だけ銅官大冶・都邑小冶各一所を残して余りを廃し東作(農耕)に充てる、二局田曹に典軍募吏を置き山湖の民を募る、といった具体策を述べた。
道子は弘を黄門侍郎にしようとしたが、父珣は年少を理由に固辞。珣は財を好み民間に貸付を広げていたが、珣の死後、弘はすべての証文を焼き捨て、旧業を諸弟に委ねた。喪中、司馬元顕の諮議参軍・寧遠将軍・知記室事を固辞、道子が重ねて諮議参軍・建威将軍・領中兵を命じたが再び固辞した。当時、内外多難で喪に服す者が哀を全うできない中、弘だけは固く喪礼を守った。桓玄が京邑を制圧し道子を廷尉に送った際、臣吏は恐れて誰も見送らなかったが、弘は喪中にもかかわらず独り道端で車を拝み涙した。
高祖への出仕と義熙年間
高祖が鎮軍将軍となると諮議参軍に召され、功により華容県五等侯に封ぜられた。琅邪王大司馬従事中郎、寧遠将軍・琅邪内史、尚書吏部郎中、豫章相を歴任。盧循が南康諸郡を侵した際、弘は尋陽に奔った。高祖は再び中軍諮議参軍に任じ、大司馬右長史、呉国内史、義熙11年(415年)太尉長史、左長史と転じ北征に従軍した。前鋒が洛陽を平定した後、九錫(帝位への布石)の勅命が未発の中、弘は使者として京師に赴き、朝廷にその意を暗に伝えた。この間、劉穆之が留任を掌っていたが、勅命が北から来たことを知り愧懼し発病して卒したという因縁が語られる。
高祖が彭城に戻ると、弘は彭城太守を領した。宋国建国後、尚書僕射・領選・太守はもとのまま。謝霊運を弾劾する上奏文を提出した。世子左衛率・康楽県公謝霊運の力人桂興が寵愛する妾を姦淫したとして桂興を殺し江に遺棄した事件について、霊運の監督不行き届きを糾弾し免官・治罪を求めるとともに、御史中丞王淮之の不作為も併せて弾劾し免官を求めた。高祖は霊運のみ免官とする裁定を下した。
地方官から中央要職へ
義熙14年(418年)、江州豫州西陽新蔡二郡諸軍事・撫軍将軍・江州刺史に転じ、賦を省き役を簡にして百姓を安んじた。永初元年(420年)、散騎常侍を加え、佐命の功により華容県公・食邑二千戸に封ぜられた。永初3年(422年)入朝、衛将軍・開府儀同三司に進んだ。高祖が宴で「わが微賤の望みはここまで及ばなかった、傅亮らは私の功徳を盛んに称えるが」と語った際、弘は率直に「これぞ天命というもの、求めて得られず、退けても去らぬもの」と答え、その簡潔さを評された。
少帝景平2年(424年)、徐羨之らが廃立を謀り弘を召集。太祖(文帝)即位後、定策の功で司空・建安郡公・食邑千戸に進められたが、弘は趙武・随会の故事を引き功なくして賞を受ける不当を説く長文の上表で固辞した。許されて使持節・侍中・監を都督に改め、車騎大将軍・開府・刺史はそのままとされた。徐羨之らが廃弑の罪により誅殺される際、弘自身は首謀者でなく、弟の王曇首も文帝に信任されていたため、あらかじめ弘に報せがあった。羨之ら誅殺後、弘は侍中・司徒・揚州刺史・録尚書・班剣三十人を賜った。太祖の謝晦西征に際し、弘は彭城王義康と共に留守を守り、中書下省に隊仗を出入させ、司徒府に権(仮)に参軍五人を置いた。
遜位の表と義康との分録
元嘉5年(428年)春、大旱にあたり弘は自ら咎を引いて遜位を上表した。天人相関説を引き、宰相の任にある自らの不徳が旱魃を招いたとする長文の自責の弁であった。彭城王義康が荊州刺史として江陵に鎮していた頃、平陸令成粲が弘に書簡を送り、異姓の宗盟より親藩を重んじるべきとして譲位を勧めた。弘はもとより退く志があり、この言を機に固く辞退を願い出、衛将軍・開府儀同三司に降った。
元嘉6年(429年)、弘は再び上表し、義康こそ録を掌るべきと説いた。詔は弘の遜譲を慰留する内容であったが、結局義康が弘に代わって司徒となり、弘と分録することとなった。弘はさらに上表を重ね辞を尽くして固辞したが許されず、二千人を割いて司徒府に配し、資儲は送らないとの詔が下った。
治政と諸議
弘は治体に練達し庶事に留意、優允(寛大な裁定)を旨とした。八座丞郎への疏で、同伍連坐制の士人適用について議論を提起した。士人が同伍の罪に連座する制度の当否を巡り、左丞江奥・右丞孔黙之・尚書王淮之・殿中郎謝元・吏部郎何尚之ら諸官と活発な議論の応酬があり、弘自身も詳細な意見を述べ、最終的に太祖の詔で衛軍(弘)の議が妥当とされた。この議論では、士人の贓罪の量刑基準(主守偸五匹・常偸四十匹での死刑を十匹・五十匹に緩和し兵役に落とす案)や、同伍連坐の奴客への適用範囲などが論じられている。
さらに弘は民の力役の年齢基準についても上言した。旧制で13歳半役・16歳全役としていたのを、体格の強弱を考慮せず一律に課すことの弊害を説き、15~16歳を半丁、17歳を全丁とする改革を提案し、採用された。
薨去とその後
その後弘は病に伏し、しばしば骸骨(辞職)を乞うたが、太祖は優詔で許さなかった。元嘉9年(432年)、太保・領中書監に進むが、その年薨去。享年54。太保・中書監を追贈、節・羽葆鼓吹を加え、班剣を六十人に増し、侍中・録尚書・刺史はそのまま。諡は文昭公、高祖廟廷に配食。
同年の詔で、弘・弟の曇首(衛将軍・左光祿大夫)・護軍将軍建昌公彦之の功を称え、弘には千戸を増封、曇首には開国県侯・食邑各千戸を追贈、彦之には旧食邑の回復を命じた。また別の詔で王太保家の清貧を賞し、銭百万・米千斛を賜った。世祖大明5年(461年)、車駕が弘の墓下を経た際、詔により祭祀が行われた(曇首についても併せて言及される)。
弘は明敏で思慮深く、民望の的として礼法を重んじ、その挙動・書翰の儀は「王太保家法」として後人の規範となった。歴任した藩鎮でも私財を営まず、薨去後は家に余財がなかった。一方で軽率で威儀に欠け、性は褊狭(狭量)で、意に逆らう者には面と向かって責めた。少年時代、樗蒲(賭博)に興じた過去を理由に、後年権力を持ってから求めに来た者を難詰した逸話が記される。
子の錫が嗣ぎ、宰相の子として起家し員外散騎常侍、清職を歴任、中書郎・太子左衛率・江夏内史となったが、高位を頼み太尉江夏王義恭にも無礼な態度をとったまま卒官。子の僧亮が嗣ぎ、斉の受禅後、爵は侯に降格・食邑五百戸。弘の末子僧達は別伝がある。
弘の弟に虞(廷尉卿)・抑(光祿大夫)・孺(侍中)・曇首(別伝あり)がいる。虞の子深は美名があり、新安太守。従弟の練(晋の中書令王珉の子)は元嘉中に侍中・度支尚書を歴任、練の子釗は世祖大明中に黄門郎などの清職を経て、臨海王子頊・晋安王子勛の征虜前軍長史・左民尚書、太宗初め司徒左長史となり建安王休仁に随行して赭圻に出たが、母の喪中に冠軍将軍を加えられたことに反発し休仁の怒りを買い、始興相に左遷、さらに廷尉に送られ賜死された。
史論
史臣曰く、晋の綱紀が弛緩したのは孝武帝が上に文を守るのみで教化が下に及ばなかったことに由来し、司馬道子の昏徳により典章は失われた。国宝(王国宝)の乱、司馬元顕の虐政が加わり、祖宗の遺典・諸侯の旧章はことごとく崩壊し、主威は立たず臣道が専行、国の制度は人ごとに異なり、家々の戸籍も異なり、民の力は豪門に吸い取られ、王府の蓄えは私蔵と化した。かくて禍の基が東方に築かれ、天下の道は綱紀を失いかけたが辛うじて存続した。高祖が挙兵して混乱を正し、君臣の分を戦陣の間に定め、内外に号令を行き渡らせ、東晋建武・永平の気風を回復し、太元・隆安の乱れた風俗を改めたのは、劉穆之の功によるところが大きい。一代の宗臣として廟に配食されるのも当然である。