晉書卷百二十六 載記第二十六 禿髮利鹿孤

即位と段業との応酬

  • 利鹿孤は隆安3年(399年)に即位し、西平に遷った。使者麹梁明を段業に送った際、段業が「先王の子がいるのになぜ立てないのか」と問うと、梁明は殷湯の兄弟継承の故事を挙げて反論し、業に賞賛された。利鹿孤は呂光死去の報を受け、将金樹・蘇翹に騎兵5千を率いさせ昌松漠口に駐屯させた。翌年、建和と改元、善政の地方官を亭侯・関内侯に封じた。

呂纂との戦い、乞伏乾歸の来奔

  • 呂纂の来襲を傉檀が迎撃し撃破(斬首2千余)、さらに姑臧を急襲して8千余戸を虜にした。乞伏乾歸が姚興に敗れて数百騎で来奔した際、鎮北将軍俱延は乾歸を隔離すべきと進言したが利鹿孤は信義を重んじて拒否し、案の定乾歸は姚興のもとへ去った。

河西王僭称と学校創設

  • 隆安5年(401年)、瑞祥を機に群臣の勧進を受け河西王を僭称。将鍮勿侖は「遊牧の伝統を守りつつ晋人には農耕を課し軍国の資とすべき」と献策、利鹿孤はこれに従った。呂隆を討って右僕射楊桓を捕らえ、その忠節を評価して左司馬とした。
  • 祠部郎中史暠の進言で学校を建て博士祭酒に田玄沖・趙誕を任じ、子弟の教育に努めた。まだ姚興に臣従していたため、興が楊桓の兄経の縁で楊桓を召した際、利鹿孤は惜別の宴を開いて厚く送り出した。

呂隆残党の平定と病没

  • 傉檀を派遣し呂隆の昌松太守孟禕を降し、忠烈を賞して左司馬に任じた(禕本人の願いで後に姑臧で処刑を受けた)。呂隆が沮渠蒙遜に攻められ援軍を求めた際、傉檀の進言で姑臧救援に出兵、蒙遜は撤退した。
  • 利鹿孤は病篤くなり「車騎(傉檀)に後を継がせよ」と遺言し在位3年で死去、偽諡康王。弟傉檀が継いだ。