晉書卷百二十六 載記第二十六 禿髮烏孤
禿髮烏孤(?–399年)。河西鮮卑の出身で、拓跋氏と同祖と伝わる部族の長。当初は後涼の呂光に服属したが、乙弗・折掘・意雲鮮卑ら諸部を平定して勢力を固め、隆安元年(397年)に自立して西平王を称し南涼を建てた。落馬の傷がもとで病を得て在位3年で没した。
出自と呂光への服属
- 禿髮烏孤は河西鮮卑の出身。祖先は後魏(拓跋氏)と同源で、八世祖の匹孤が部族を率い塞北から河西へ移った。子の壽闐は母胡掖氏が寝具の中で産んだことから鮮卑語で被を意味する「禿髮」を氏とした。壽闐の孫樹機能は泰始年間(265年-274年ごろ)に秦州刺史胡烈を萬斛堆で殺し、涼州刺史蘇愉を金山で破って涼州を制圧し、晋の武帝を憂慮させたが、のち馬隆に敗れ部下に殺された。從弟務丸、孫推斤、子思復鞬と継ぎ、烏孤は思復鞬の子。
- 即位後は農桑に努め隣国と友好を結んだ。呂光は使者を送り烏孤を假節・冠軍大將軍・河西鮮卑大都統・廣武縣侯に任じた。諸将は「呂氏に属する必要はない」と反対したが、将の石真若留が「根本がまだ固まっていない今は時流に従うべき」と諫め、烏孤はこれを受け入れた。
近隣諸部の平定と自立の兆し
- 烏孤は乙弗・折掘の二部を討って大破し、将の石亦幹に廉川堡を築かせて拠点とした。石亦幹が呂光打倒を勧めたのに対し、烏孤は「祖先の徳で遠方まで懐かせてきたのに、自分の代で諸部が離反したのを嘆いているのだ」と応じ、その後苻渾の進言で軍を整えて諸部を大破した。呂光は烏孤を廣武郡公に封じ、烏孤はさらに意雲鮮卑も撃破した。
- 呂光は烏孤を征南大將軍・益州牧・左賢王に任じようとしたが、烏孤は使者に「呂光は徳で遠方を懐柔できず、子や甥の暴虐で郡県が崩壊している。天下の心に逆らって不義の爵を受けられようか」と述べ、鼓吹儀仗を留め置いて使者を返した。
自立と晩年(397年-399年ごろ)
- 隆安元年(397年)、大都督・大將軍・大單于・西平王を自称し、太初と改元。金城を攻略し、呂光の将竇苟を街亭で大破、樂都・湟河・澆河三郡を降し、羌胡数万落が帰順した。呂光の将楊軌・王乞基も投降。烏孤はさらに武威王を称し、3年後樂都に遷都、弟利鹿孤を驃騎大將軍・西平公として安夷に、傉檀を車騎大將軍・廣武公として西平に鎮させた。楊統・衛殷ら文武の人材を各地の要職に登用した。
- 烏孤は群臣に隴右統一の方策を諮問、楊統は「乞伏乾歸はいずれ服す、段業は義に反する、呂氏は内紛で瓦解しつつある」として姑臧攻略の策(両将で東西から交互に出撃し呂纂を疲弊させる)を進言、烏孤はこれに従い併呑の志を固めた。段業が呂纂に侵攻された際は利鹿孤を派遣して救援し、利鹿孤を涼州牧とした。
- 隆安3年(399年)、烏孤は酒に酔い落馬して脇を傷め、「呂光父子を喜ばせてしまった」と笑ったが病が重くなり、「国難がまだ収まらぬゆえ年長者を立てよ」と遺言して没した。在位3年、偽諡は武王、廟号は烈祖。弟利鹿孤が継いだ。