北燕の建国と横死(407年ごろ)
- 慕容雲、字は子雨。寶の養子で、もとは高句麗系の高氏。武勇に優れ、寶の代に慕容会の反乱を鎮圧した功で慕容姓を賜った。
- 馮跋らに擁立され、固辞したが天王位に即き、姓を高氏に戻し国号を大燕とした(正始と改元、北燕の始まり)。馮跋を重用し旧臣も復権させたが、寵愛した壮士離班・桃仁に東堂で刺殺された。馮跋は雲の遺体を東宮に移し、惠懿皇帝と諡した。
史論
- 史臣は、慕容垂を英傑と評しつつ、猜疑ゆえに苻堅に身を寄せながらも野心を隠さず、淝水の敗戦に乗じて自立した経緯を評す。趙・魏を席巻し中山に新王朝を築いた功業を重耳や句踐の故事に比しつつ、苻氏を欺いた不忠は否めないとする。
- 寶は浮ついた評判で即位し苛法で人心を失い、内憂外患に耐えられなかったとする。盛は孝友の徳を備え文武の才もあったが、乱世の中で「濁世の佳虜」と評される複雑な評価を受ける。熙は正統な後継でないまま淫虐に流れ、苻氏への溺愛と土木の濫費で宗祀を絶やし、馮氏に取って代わられる素地を作ったと結ぶ。
- 贊にいわく、戎狄が勢いを増し山川騒然とする中、慕容垂は勇猛に燕・魏を切り従えたが、その簒奪の名は密かに奪われた。寶は内乱を招き、盛は家難を清めたものの、熙は驕淫を極めて人々の憤りを買い、その咎は身に報いて逃れがたかった、と総括する。