晉書卷百二十五 載記第二十五 乞伏國仁

出自と自立(385年)

  • 乞伏國仁、隴西の鮮卑人。始祖伝説では、如弗斯・出連・叱盧の三部族が大陰山を南下する際、巨獣(神亀のような姿)に遭遇し馬を犠牲に祈ったところ一人の子供が現れ、乞伏部の老人がこれを養子にして「紇幹(依り頼むの意)」と名付けたという。その子孫は代を重ね、5代前の祐鄰の代に泰始年間(265年ごろ)鮮卑鹿結を破って高平川に拠り、以後、結権・利那・祁埿・述延・傉大寒・司繁と続いた。
  • 司繁は前秦の王統に敗れて苻堅に降り南単于に任じられ、勇士川を鎮めた。司繁の死後、國仁が跡を継ぎ、苻堅の淝水出征に従軍。叔父の步頹の反乱鎮圧を名目に軍を還し、苻堅の衰退を見て諸部族を糾合、勢力を10万余に拡大した。苻堅が姚萇に殺されると、太元10年(385年)大都督・大将軍・大単于を自称(建義と改元)し、秦・河二州の12郡を置いて勇士城を拠点とした。
  • 南安の秘宜らを破って服属させ、苻登(前秦の残存勢力)から都督・大単于・苑川王などの称号を受けた。周辺の鮮卑諸部(密貴・裕苟・提倫、越質叱黎など)も次々と討伏・服属させた。太元13年(388年)死去、在位4年。偽諡は宣烈王、廟号烈祖。