晉書卷百二十四 載記第二十四 慕容熙
淫虐の治世(401年-407年)
- 慕容熙、字は道文。垂の末子。段速骨の乱・蘭汗の簒奪をくぐり抜け、慕容盛の死後、太后丁氏の意向で太子慕容定を廃し熙が擁立された(光始と改元)。
- 寵姫苻氏(後に昭儀・皇后)に溺れ、丁氏との密通、丁氏一族の粛清、大規模な宮殿造営(龍騰苑・景雲山・逍遙宮など)による民の疲弊、高句麗・契丹への出兵の失敗が続いた。苻氏の死に際しては異常なまでの哀慟を示し、遺体との接触や大規模な陵墓造営で財政・民力を消耗させた。
- 馮跋兄弟らが政の苛虐に反発して挙兵、慕容雲を主に擁立。熙は敗走し隠れていたところを捕らえられ殺害された。享年23、在位6年。慕容垂の即位(太元8年=383年)から熙まで四代24年、安帝義熙3年(407年)に後燕は滅んだ。童謡が「禿頭の小児が燕を滅ぼす」と予言していたことが、雲の父の字「禿頭」に結びつけて語られる。