晉書卷百二十一 載記第二十一 李雄
李雄(字は仲俊、李特の三男、?–333年)。父特の挙兵、兄李流の死を経て自立し成都を制圧、成漢を建国して皇帝を称した。范長生を丞相に迎え善政を敷き、寛厚な統治と軽い租税で治安を保ったが、実子でなく兄李蕩の子李班を太子に立てたことが後の内紛の遠因となった。
出自と成都平定
- 李雄、字は仲俊。李特の三男。母羅氏は虹が天に昇る夢や大蛇に絡まれる夢を見て身ごもり、14か月を経て雄を生んだという伝説がある。身長8尺3寸、容貌に優れ、若くして周囲の識者に評価された。占術者の劉化は「関隴の士は南へ移るべきで、李氏の子の中では仲俊だけが人主の相を持つ」と予言した。
- 李特が蜀で挙兵した後、雄は前将軍となる。兄李流の死後、雄は自ら大都督・大将軍・益州牧を称し、郫城を都とした。羅尚配下の攻撃を退け、李驤が犍為を攻めて羅尚の糧道を断つと、羅尚は成都を捨てて夜逃げし、雄が入城して成都を制圧した(301年頃)。当時軍中は飢饉で、野芋を掘って食いつなぐほどだった。
- 雄は西山に隠棲する道士范長生を君主に迎えようとしたが固辞され、代わりに自らへりくだり、国政は叔父李国・李離兄弟に委ねた。
成都王・皇帝即位(304年-306年ごろ)
- 諸将の要請により、永興元年(304年)に成都王を自称し、独自の法制(約法七章)を定め、曾祖父以下を追尊し、叔父李驤を太傅、兄李始を太保などに任じた。范長生を丞相に迎え「範賢」と尊称した。
- 范長生の勧めで雄は帝位に即き(太武と改元)、父李特を景帝と追尊、母羅氏を太后とした。范長生は天地太師・西山侯に封じられ、その部曲は租税免除の特権を得た。尚書令閻式は建国当初の官制の混乱を指摘し、漢晋の旧制に倣った制度整備を上奏、雄はこれに従った。
漢中・南中への勢力拡大
- 李国・李雲らが漢中に侵攻し、梁州刺史張殷は長安へ逃走、漢中の民は蜀へ移された。
- 南方では飢饉・疫病で十万単位の死者が出る中、南夷校尉李毅は抵抗を続けたが病没し、城は陥落、多数が殺害・連行された。
- 梓潼を拠点としていた李離が部将に殺害され梓潼は羅尚に帰したが、雄はこれを奪還。羅尚の死後、巴郡の混乱に乗じて涪城を陥落させ、梓潼太守譙登を捕らえた。
- 雄の母羅氏の死に際し、巫覡の言を信じて喪礼をめぐり動揺したが、群臣(李驤・上官惇・任回ら)の説得で服喪を切り上げ政務に復帰した。以後、南方の漢嘉・涪陵も帰属し、寛大な統治で益州は安定した。妻任氏を皇后に立てた。氐王楊難敵は劉曜に敗れて葭萌に逃れ、雄に人質を送って服属した。隴西の陳安もこれに従った。
- 李驤は越巂へ遠征し太守李釗を降したが、寧州刺史王遜配下の抵抗と長雨で撤退、瀘水渡河で多くの兵を失った。李釗はその後成都で厚遇され朝儀を任された。
- 楊難敵の武都復帰後の不法行為を討つため、雄は李琀・李稚らを派遣したが、難敵軍に退路を断たれ大敗、琀・稚(雄の兄李蕩の子)を含む多数が戦死した。雄は深く悲しみ、数日食を断ったという。
太子擁立の対立
- 雄には十余人の子がいたが、兄李蕩の子・李班を太子に立てようとした。群臣は雄の実子の擁立を望んだが、雄は兄の功績を理由に班を立てることを主張。李驤・王達は「先王が正統の後継を立てるのは簒奪を防ぐため」と諫めたが聞き入れられず、班が立てられた。李驤は「乱はここから始まる」と嘆いた。
東晋・涼州との関係
- 涼州の張駿は使者を送り、帝号を捨てて東晋に籓属するよう勧めたが、雄は自らの立場を説明しつつ丁重に返書した。張駿の使者張淳との問答では互いに矜持を示し合ったという逸話が伝わる。
- 雄は中原の混乱に乗じ東晋(穆帝期)に朝貢を重ね、勢力圏を分かち合った。李驤の死後、その子李壽が大将軍・西夷校尉となり巴東・建平方面を攻略、寧州刺史尹奉も降り南中の地を得た。
晩年と没(334年ごろ)
- 咸和8年(333年)、頭に腫瘍を生じて6日で没した。享年61、在位30年。偽諡は武帝、廟号太宗。
- 雄は寛厚な性格で刑法を簡略にし、叛いた氐族の苻成・隗文らを許して受け入れるなど寛大な統治で名を上げた。学校を興し史官を置くなど文治にも努め、租税・賦役を軽くしたため、閭門を閉じる必要もないほど治安が良かった。ただし官職を金銀で売ることもあり、丞相楊褒はこれを諫めた。また酒に酔って乱暴を働いた際にも楊褒が諫言し改めさせた。一方で国の威儀・法制は整わず、行軍にも規律を欠き、戦功争いや略奪が横行したことが政権の弱点であったと総括される。