晉書卷百十六 載記第十六 姚弋仲

姚弋仲(?–352年)は南安赤亭の羌人で、有虞氏の末裔と伝える豪族の長。永嘉の乱で榆眉に東遷し、劉曜・石季龍に仕えて重んじられ、剛直な諫言で知られた。晩年、子らに晋への帰順を遺言し、後秦建国の礎を築いた人物とされる。

年表(2件)

後秦の礎を築いた羌族の長

  • 姚弋仲は南安赤亭の羌人。有虞氏の末裔と伝え、禹が舜の少子を西戎に封じて以来代々羌の酋長であったという。先祖の填虞は漢の中元末に西州を侵し楊虚侯馬武に敗れて塞外に徙り、九世孫の遷那が漢に内附して冠軍将軍・西羌校尉・帰順王となり南安赤亭に処せられた。その玄孫柯回は魏の鎮西将軍・綏戎校尉・西羌都督となり、弋仲を生んだ。弋仲は若くして英毅で財産を営まず民の救恤に努め、衆に畏敬された。永嘉の乱で榆眉へ東遷し、従う戎夏数万を率いて自ら護西羌校尉・雍州刺史・扶風公と称した。
  • 劉曜が陳安を平定すると弋仲を平西将軍・平襄公とした。石季龍が上邽を克つと、弋仲は隴上の豪強を移して畿甸を実にすべきと説き、季龍はこれを容れ安西将軍・六夷左都督に任じた。晋の豫州刺史祖約が石勒に降ると、弋仲は祖約の不忠を上疏で指弾し、勒はのちに約を誅した。
  • 石勒の死後、石季龍は弋仲の言を思い出し秦・雍の豪傑を関東に徙し、弋仲も部衆数万を率いて清河に遷り奮武将軍・西羌大都督・襄平県公となった。季龍が石弘を廃して自立すると弋仲は病と称して賀さず、召されて「臂を把りて託を受けながら反ってこれを奪うとは」と面詰したが、季龍はその剛正を憚り責めなかった。のち持節・十郡六夷大都督・冠軍大将軍に進む。清倹鯁直で威儀を飾らず、諫言を憚らず朝議に参決し、季龍寵姫の弟である武城左尉が部を騒がせた際は自ら斬ろうとするなど、剛直な逸話が多い。
  • 季龍末年、梁犢が李農を滎陽で破ると、季龍は病中ながら弋仲を召し出兵を求めた。弋仲は冷遇に怒り一度は食を拒んだが、のち引見され季龍を叱咤しつつも忠誠を誓い、使持節・侍中・征西大将軍を授けられた。自ら甲を着け馬を馳せて梁犢を討ち滅ぼし、剣履上殿・入朝不趨を加えられ西平郡公に進んだ。
  • 冉閔の乱では衆を率いて討伐に向かい混橋に駐屯。石祗が襄国で帝号を僭称すると弋仲を右丞相として厚遇した。祗と閔の攻防で弋仲は子の襄を援軍に送るが、閔を捕らえられなかった襄を怒って杖百を科した。
  • 部曲の馬何羅は張豺に付いていたが敗れて弋仲に帰参し、周囲は誅殺を勧めたが弋仲は人材を惜しんで参軍に用いた。
  • 弋仲には子四十二人あり、常々「石氏の厚遇に報いて賊臣討伐を志したが、石氏が滅んだ今、中原に主なく、古来戎狄が天子となった例はない。我が死後は晋に帰し臣節を尽くせ」と戒め、晋に降を請うた。永和七年(351年)に使持節・六夷大都督・都督江淮諸軍事・車騎大将軍・儀同三司・大単于・高陵郡公を拝命し、翌八年(352年)73歳で没した。
  • 子の姚襄が関中に入る際、苻生に敗れて弋仲の柩は生の手に落ちたが、生は王礼をもって天水冀県に葬った。のち姚萇の即位により景元皇帝と追諡され、廟号始祖、墓は高陵と称し園邑五百家を置いた。