晉書卷百十六 載記第十六 姚襄
姚襄(字は景国、姚弋仲の第五子、?–357年)。父の死後に兵権を継ぎ、東晋に降って謝尚らと結ぶが、殷浩との抗争を経て大単于・大将軍を自称し自立、洛陽攻略を図る驍将。関中への進出を試みるも苻生配下の軍に阻まれ、三原の戦いで敗死した。
年表(1件)
- 升平元年357年関中進出を図るも苻堅・鄧羌らに阻まれ、三原の戦いで敗死(27歳)
東晋に降り関中を窺った驍将
- 姚襄、字は景国、弋仲の第五子。十七歳で身長八尺五寸、臂は膝を過ぎ、雄武多才で人望篤く、衆は皆彼を嗣ぎとして望んだが弋仲は許さず、百姓の強い請いによりようやく兵を授けた。石祗の僭号に際し使持節・驃騎将軍・護烏丸校尉・豫州刺史・新昌公とされ、晋からも持節・平北将軍・并州刺史・即丘県公を拝命した。
- 弋仲の死を秘して喪を発せず、戸六万を率い陽平・元城・発幹を攻略、碻磝津に屯した。太原王亮を長史、天水尹赤を司馬とするなど幕僚を整え、滎陽に至ってはじめて喪を発した。高昌・李暦との麻田の戦いで馬を射られ落命寸前を弟の萇に助けられた。晋の処遇で譙城に置かれ、五弟を人質として単騎淮を渡り豫州刺史謝尚と壽春で会見、意気投合した。
- 襄の名声を憚った中軍将軍・揚州刺史殷浩は刺客を送るがことごとく誠意で懐柔され、将軍魏憬の五千の襲撃も逆に斬って併合した。浩はさらに劉啟に譙を守らせ襄を梁国蠡台に遷す策を取ったが、使者権翼の弁論もむなしく浩の疑念は解けず、謝萬の討伐も襄が撃破。浩自ら北伐に向かうと襄は山桑で要撃し大勝、劉啟・王彬之の討伐軍も撃滅して淮南に進出、盱眙に屯して流民七万を集め殷浩の罪状を訴えた。
- 流人郭斁らが晋の堂邑内史劉仕を捕らえ襄に降ると朝廷は震撼し、周閔を中軍将軍として江を守らせた。襄配下は北人が多く北還を勧める中、大将軍・大単于を自称し外黄を攻めるが晋の辺将に敗れる。散卒を撫恤して再興し許昌に拠り、洛陽を攻めるが月を越えて陥せず、長史王亮の諫言(山桑ならぬ河北への帰還)にも「洛陽は要害の地、まずここに拠って大業を開く」と応じた。まもなく王亮が病没し襄は痛哭した。
- 晋の征西大将軍桓温の討伐を受け伊水北で敗れ、麾下数千で北山に奔る。その夜妻子を棄てて随従する百姓五千余、翌日また四千余戸が集まるなど民望篤く、負傷が重いとの噂に温軍の士女すら北を望んで涙したという。弘農の楊亮は一時襄に帰属したのち桓温に転じたが、温に問われ「孫策の類で雄武はそれに勝る」と評した。
- 襄はのち北屈に徙り関中を図ろうと杏城に進屯、従兄の姚蘭に鄜城を略取させるが苻生配下の苻飛に敗れ蘭は捕らえられた。襄は西進を続けるが苻生の遣わした苻堅・鄧羌らに阻まれ、沙門智通の諫止を退けて三原で決戦、敗死した(27歳、晋の升平元年〈357年〉)。苻生は公礼で葬り、のち姚萇の即位で魏武王と追諡、孫の延定は東城侯に封じられた。