晉書卷百十六 載記第十六 姚萇
姚萇(字は景茂、姚弋仲の第二十四子、?–393年)。兄姚襄の参謀として従い、襄の死後は苻堅に仕えて功を重ねたが、淮南の敗戦を機に自立、太元九年(384年)に秦王を称して挙兵し、苻堅を捕らえて死に追いやった。太元十一年(386年)に皇帝を僭称し後秦(大秦)を建国、武昭皇帝と諡された。
後秦を建国した皇帝
- 姚萇、字は景茂、弋仲の第二十四子。聡哲で権略に富み、闊達で行いを飾らず兄たちに一目置かれた。襄の遠征に常に参謀として従い、襄が洛陽を攻める前夜、萇が袞衣を着て御座に登る夢を見た襄は「この子の志度は尋常でない、あるいは我が族を大いに興すか」と語った。麻田の戦いで襄が落馬した際、萇は自らの馬を譲り「兄さえ助かれば我が身はどうでもよい」と述べた。
- 襄の死後、諸弟と共に苻生に降り、苻堅の下で揚武将軍、隴東・汲郡・河東・武都・武威・巴西・扶風の太守、寧・幽・兗三州刺史などを歴任し功を重ね益都侯に封じられた。楊安の蜀討伐に随行した際、水辺で昼寝すると神光が現れたという逸話も伝わる。苻堅の晋侵攻に際し「龍驤」の号を初めて他人に授けられ、竇沖は不吉の徴と諫めたが堅は黙した。
- 淮南の敗戦後、慕容泓が挙兵すると堅は子の叡を討伐に遣わし萇を司馬としたが泓に敗れ叡は戦死。萇は堅に謝罪の使者を送るが堅は怒って使者を殺し、萇は渭北に逃れ馬牧に至った。西州の豪族尹詳・趙曜・王欽盧・牛雙・狄広・張乾ら五万余家が萇を盟主に推し、天水の尹緯の勧めに従い太元九年(384年)大将軍・大単于・万年秦王を自称、白雀と改元し百官を置いた。
- 慕容沖と苻堅の攻防を横目に和を通じつつ北地に進屯、堅が徙した晋人李祥らや北地・新平・安定の羌胡十余万戸が帰順、堅の攻撃も凌いだ。群臣の勧める咸陽先取策を退け「秦弊え燕帰るを待って坐して天下を取る」との持久策を採り、堅の将宋方を破り新平を攻略、嶺北諸城を降した。
- 慕容沖に追われた堅が五将山に逃げ込むと権翼ら堅の文武数百人が萇に帰参、萇は吳忠に堅を包囲させ捕らえて護送させた。慕容沖の車騎大将軍高蓋の五万を新平南で大破、沖の東下後に長安を占拠した盧水の郝奴を破って服属させた。
- 太元十一年(386年)萇は長安で皇帝を僭称、建初と改元し国号を大秦、長安を常安と改称。妻虵氏を皇后、子興を皇太子とし、火徳を称して服色を漢制に倣った。安定・平涼・秦州を転戦し、南安人古成詵の進言(賢才登用の勧め)を容れ抜擢するなど徳政にも努めた。弟の碩德を隴右諸軍事都督・征西将軍・秦州刺史に任じ上邽に鎮させた。
- 苻登との抗争は長期化し、堅の旧臣を捕らえ堅の屍を暴いて鞭打つなど激しい報復も行った。馮翊太守蘭犢の救援要請には自ら赴き苻師奴を大破、蘭犢も救出。関西の豪傑が去就に迷う中、征虜齊難ら少数の将のみ忠を守り「大営」の号が始まった。天候不順の際は自ら責を負い後宮の財を戦費に充て、戦没者を篤く弔うなど軍を治めた。
- 索盧曜の苻登暗殺計画は失敗に終わったが、萇は連座した辛暹を厚遇。安定を巡る攻防では慎重な用兵を貫き、苻登の輜重を夜襲するなど計略で優位に立った。尹緯・姚晃と古成詵の問答では、古成詵が「三秦の大半は既に我が手中、苻登ら残党は憂うに足らず」と楽観論を述べ萇を喜ばせた。
- 雷悪地の降伏を受け入れ、魏褐飛の反乱では寡兵で敵の大軍を巧みに翻弄し褐飛を斬って万余を討ち取った。悪地は降ってのちも萇の智力に敬服したという。当城の樹木の逸話(千六百で三万を破った戦功を称える話)や、簡率な性格ゆえの群臣への無礼を太常権翼に諫められた逸話も伝わる。
- 苟曜の内通発覚後は太子興に命じて誅殺させ、安定東で苻登を大破した宴では「亡兄(姚襄)に及ばぬ四点」を謙虚に語り群臣の称賛を受けた。学官の整備や褒賞の制度化にも努めた。
- 病篤くなった萇は太子興を召し、征南姚方成の進言で興が王統・苻胤ら旧臣を誅殺したことを知り「彼らはまだ用いるべき人材だったのに」と怒った。尹緯の献策で太子興を実戦に出し威望を高める策も功を奏した。
- 新支堡で病が重篤化した萇は、苻堅の亡霊に襲われる夢を見て発病し、狂言(「陛下を殺したのは兄襄であり臣の罪にあらず」)を発するようになった。長安に至り姚旻・尹緯・姚晃・狄伯支らに後事を託し、太子興に「骨肉を仁で撫し、大臣を礼で接し、物に信を持ち、民に恩を施せ」と遺言。太元十八年(393年)64歳、在位8年で崩じ、武昭皇帝と諡され廟号太祖、墓は原陵と称された。