晉書卷百十五 載記第十五 前秦 苻丕 苻登

苻丕――前秦後継、鄴籠城から晋陽即位へ

鄴脱出と即位(太元十年=385年)

  • 苻丕、字は永叔。堅の長庶子。文武に優れ鄧羌に兵法を学び、鄴を鎮めて東夏を安んじた。淝水敗戦後、慕容垂に圧迫され枋頭へ、堅の死後は再び鄴に戻り関中への合流を図るが、幽州刺史王永・平州刺史苻沖が平規らに敗れたため、和龍・薊城の宮室を焼いて壺関に進み、丕を招いた。丕は男女六万を率いて潞川に至り、張蠔・王騰に迎えられて晋陽に入城、堅の死を知って挙哀。王永の勧めで太元十年、晋陽で皇帝に即位、太安と改元。堅の行廟を立て、張蠔・王永・王騰ら功臣に高位を授けた。

涼州の混乱(呂光の東帰)

  • 西域から帰還した呂光を涼州刺史梁熙が阻もうとし、部下の楊翰・張統がそれぞれ戦略・懐柔を進言するも熙は聞かず、行唐公苻洛を殺害。結果、呂光に敦煌・晋昌が降り、熙は部下の裏切りで捕らえられ光に殺害された。

関東・隴右諸将の去就

  • 堅の旧臣苻纂らが丕の下に集結、信都・博陵など各地で慕容垂・慕容驎軍との攻防が続く中、王兗は博陵で部下の裏切りにより苻鑒と共に討ち死。竇沖・王統・毛興・王廣・楊璧・楊定ら隴右の諸将は姚萇討伐を掲げて丕を推戴した。

王永の檄文と姚萇討伐の呼びかけ

  • 王永は各地に檄を発し、慕容垂・慕容泓沖・姚萇を賊とし、丕への忠誠を訴えた。枹罕では毛興と王廣・王統の間で内紛が起き、興は殺され衛平が河州刺史を称した。慕容忠を殺した刁雲は慕容永を推戴、苻定・苻紹・苻謨・苻亮ら苻氏諸将は次々と慕容垂に降った。

慕容永との戦いと苻丕の最期

  • 丕は王永を左丞相、苻纂を大司馬とし平陽に進出、慕容永との襄陵の戦いで王永・俱石子が戦死。苻纂は丕を疑って離反、東垣で晋の馮該に敗れ丕は斬られた。苻登が帝位を継ぎ丕を哀平皇帝と追諡した。丕の旧臣は多く慕容永に帰し、永は上黨の長子に拠り「中興」と改元して僭号した。丕在位2年。

苻登――前秦最後の抗戦

出自と挙兵まで

  • 苻登、字は文高。堅の族孫。父敞は苻生に殺された。堅の代に涼州刺史を追贈され、兄同成の後を継いだ。毛興の下で長史となり、興の死に際し「姚萇碩德を討てるのはお前だけ」と司馬事務を託された。

皇帝即位と堅神主による戦い(太元十一年=386年)

  • 苻丕の死を知った登は喪を発し、丕の子懿の擁立を進言する声を退けて自ら即位(太初と改元)。堅の神主を戦陣に奉じ、戦のたびに告げて士気を鼓舞、将士は鎧に「死休」の字を刻んで決死の覚悟を示した。旱魃で食糧が尽きると、戦死者の肉を兵糧とする凄惨な戦術(「熟食」と称した)まで用いた。

姚萇との死闘

  • 徐嵩・胡空ら堅の旧臣が登に降り、堅の遺骸を天子の礼で改葬。苻纂は自立せず登を推したが後に殺され師奴が秦公を称すなど内紛も発生。竇沖・楊定・楊璧を要職につけ、姚萇との攻防(涇陽・汧・雍・敷陸等)は一進一退が続いた。
  • 姚萇も対抗して堅の神主を軍中に立てて自らの正当性を主張したが、登は「主君殺しの賊が神像に福を求めるとは」と痛罵、萇は動揺し神主の首を斬って登に送り返す一幕もあった。

長期戦と萇の死(太元十九年頃=394年)

  • 登は各地の攻防(安丘・平涼・大界・胡空堡等)で勝敗を繰り返し、妻毛氏や子の弁・尚を萇の夜襲で失う痛手も受けた。竇沖の離反と再和睦、姚萇の病(苻堅の祟りに苦しんだとされる)を経て姚萇は死去。登は「姚興など鞭で打ちのめしてやる」と喜んだが、廢橋の戦いで渇きに苦しむ軍を姚興配下の尹緯に大敗させられた。

登の最期

  • 弟の広・太子崇の敗走もあり、登は平涼から馬毛山に逃れ、隴西鮮卑の乞伏乾歸に援軍を求めたが、姚興との決戦に敗れ討ち死にした。在位9年、享年52。子の崇は湟中で即位を称するも乾歸に敗死。登には高皇帝、廟号太宗が追諡された。
  • 苻健の永和七年(351年)建国から登まで五世44年、太元十九年(394年)に前秦は滅亡した。

索泮――涼州の忠臣

  • 索泮、字は德林。敦煌の人。張天錫に仕え善政で知られ、苻堅からも「涼州には君子が多い」と評された。呂光が姑臧を陥した際、郡を固守して降らず捕らえられ、光の詰問にも「主滅べば臣も死すのみ」と屈せず刑死した。弟の菱も共に殺害された。

徐嵩――節義に殉じた将

  • 徐嵩、字は元高。清廉で知られ、苻堅に見出され長安令として貴戚の不法も容赦なく取り締まった。始平郡を守るも陥落し、姚萇配下の姚方成に捕らえられ、「姚萇は万死に値する逆賊」と罵倒して斬られた。苻登はこれを哀傷し車騎大将軍を追贈、忠武と諡した。

史論

  • 史臣は、両京陥落後の群雄割拠を「逐鹿」「瞻烏」に譬え、苻洪は羯(後趙)の衰退に乗じ東晋に款を通じつつ関右を狙った点で禍の種を蒔いたと評す。苻健は関中の険阻に拠り大位を僭窃した経緯を「奸雄の一例」とし、苻生については天変を口実に殺戮を恣にした残虐さを厳しく批判する。
  • 苻堅(永固)については、器量広く夷を化して夏に同じくし、王猛・苻融・権翼・薛贊・鄧羌・張蠔ら賢臣を用いて燕・蜀・代・涼を平らげ九州の七を領する空前の版図を築いた点を高く評価、「五胡の盛、これに比する者なし」とまで称える。しかし驕慢に流れて諫言を退け、窮兵黷武の末に淝水で大敗、鮮卑・羌の離反を招いて宗廟を失い賊臣の手にかかった顛末を「哀しむべく謬れり」と痛烈に総括する。
  • 苻丕は乱に乗じて僭位しまもなく敗れた点を「天の廃する所、人の支えうる所にあらず」とし、苻登については衆寡敵せぬ中での奮戦を「義烈慷慨、称するに足る」と評価する。
  • 賛(韻文)では、苻洪の勇壮な威勢に始まり、健が関隴に雄飛し、生の昏虐が招いた敗亡、堅の隆盛と慢心による転落、丕・登の相次ぐ敗亡までを概括し、前秦の興亡を締めくくる。