晉書卷百五 載記第五 後趙錄二 石勒(続)

趙王即位と制度整備(太興2年=319年)

  • 太興2年(319年)、趙王を自称し大赦・減税を行い、宗廟・社稷や東西宮を整備。張賓を大執法として朝政を統括させ、胡人の訴訟を扱う「門臣祭酒」を置くなど、胡漢を区別しつつ融合を図る統治機構を整えた。
  • 国人(胡人)に対しては嫂を娶る風習や喪中の婚姻を禁じるなど、漢風の礼制を取り入れる一方、火葬など旧俗も一部残した。

徐龕・段匹磾・曹嶷らの平定

  • 石虎(季龍)を将として、晋の徐龕(389?CE年頃反乱)、段匹磾(幽州の鮮卑系軍閥)、青州の曹嶷らを次々に討伐・降伏させ、河北から山東にかけての支配を固めた。段匹磾は捕らえられ冠軍将軍に任じられたが、曹嶷は降伏後に殺害され、その配下3万も生き埋めにされた。
  • 東晋の祖逖が譙に拠って北伐の構えを見せると、石勒は正面衝突を避けて祖逖の祖先の墓を守るなど懐柔策を取り、兗豫の民は一時安定した(祖逖の死後、再び侵攻を開始)。

内政・文化事業

  • 太学・小学を整え、経義に通じた学生を登用。九品官人法に倣った人材登用制度(張賓が選挙を統轄)を整備し、秀才・至孝など科目別の推挙制も導入した。
  • 建徳殿など鄴を模した宮殿を造営する一方、徐光ら側近の直諫(浪費への諫言、寒食禁止を巡る議論など)をたびたび容れる度量も見せた。武郷(勒の郷里)の民の租税を三代にわたり免除するなど、出身地への配慮も厚かった。

劉曜との対決――洛陽の戦い(咸和4年=329年頃)

  • 劉曜が石虎を高候で破り洛陽を包囲すると、群臣は石勒の親征に反対したが、徐光・仏図澄(西域僧)の進言を得て自ら出陣。金墉の西で劉曜軍と決戦し、大勝して劉曜を捕縛(前巻既述の通り、後に劉曜は殺害された)。
  • 続けて石虎に劉曜の子・熙らを上邽に追撃させ、秦・隴を平定。前趙は完全に滅亡した。涼州の張駿も称藩し、氐羌十五万落を司・冀州に移住させた。

皇帝即位(咸和5年=330年)

  • 群臣の勧進を受け、咸和5年(330年)まず「趙天王」を称し、さらに間もなく皇帝に即位、改元して建平とした。祖先を追尊し、子の石弘を太子、石虎(中山王)以下の一族・功臣を諸王・諸侯に封じた。
  • 国制は水徳を承けるとし、官制・爵制を整備。祖約(東晋の将軍で降伏していた)は不忠を理由に一族もろとも誅殺された。

晩年の政治と後継問題

  • 郭敬の襄陽攻略、秦州の平定など各地で軍事的成功を収める一方、日食への謹慎、農桑の奨励、学官の整備(郡ごとに博士・弟子を置く)など内治にも意を用いた。
  • 太子石弘は温厚な性格で、徐光は「漢の高祖と文帝」に例えてこれを評価したが、程遐(弘の外戚)は武勇に優れ実権を握る中山王石虎(季龍)の排除を勧めた。石勒はこれを容れず、石虎を伊尹・霍光のような後見役に据えるにとどめた――この判断が後の混乱の火種となる。

崩御(咸和7年=332年)

  • 病篤くなると石虎が太子弘や側近を隔離し、権力を掌握し始めた。石勒は不審を覚えつつも、遺言で石虎に対し「司馬氏の内紛を鑑とし、大雅(弘)を助けよ」と諭した。
  • 咸和7年(332年)に没す。享年60、在位15年。薄葬を遺命し、山中に密葬(高平陵と号す)。諡は明皇帝、廟号は高祖。

石弘(字大雅、勒の第二子)

  • 温厚篤実で儒学を好み、太子として立てられたが、程遐・徐光の進言にもかかわらず石勒は中山王石虎の権力を削がなかった。
  • 勒の死後、石虎は程遐・徐光を投獄し兵権を掌握。弘は自ら位を譲ろうとしたが石虎は一旦これを拒み、咸和7年(332年)に至って弘を即位させた(改元・延熙)。程遐・徐光はまもなく誅殺された。
  • 石虎は丞相・魏王・大単于となり九錫を加えられ、事実上の実権を握った。皇太后劉氏(勒の后)は石堪に密かに挙兵を促したが失敗し、石堪は捕らえられ焼き殺され、劉氏も殺害された。
  • 石生(関中)・石朗(洛陽)の反乱も石虎により鎮圧され、石虎はさらに権勢を強めた。咸康元年(335年)、弘は廃されて海陽王とされ、まもなく母・程氏や弟の石宏・石恢と共に殺害された。在位2年、享年22。

張賓(附伝)

  • 字は孟孫、趙郡中丘の人。父は瑤(中山太守)。若くして学を好み、自ら「智謀は張良に劣らぬが、高祖のような主に遇わぬだけだ」と語った。
  • 永嘉の乱の頃、石勒の陣営に単身乗り込んで謀主となり、以後の数々の献策(襄国拠点化、王弥謀殺、幽州攻略の奇策など)はすべて張賓の功績とされる。右長史・大執法として濮陽侯に封じられたが、謙虚さを失わず信望を集めた。
  • 没した際、石勒は自ら哭泣し、右光禄大夫・儀同三司を追贈、諡は景とした。後任の程遐との議論のたびに張賓を偲び、その死を惜しんだという。