出自と石勒配下での台頭
- 石季龍は石勒の従子(甥)。実名は太祖(唐の廟諱)に触れるため字の「季龍」で呼ばれる。祖父は邪、父は寇覓。石勒の父硃が幼い季龍を養子としたため、石勒の弟とも称された。
- 六、七歳の頃、相者に「貴きこと言うべからず」と評される。永興年間(304-306年頃)、石勒と離散。後に劉琨が石勒の母王氏と季龍を葛陂に送り届けた。時に十七歳。
- 性は残忍。狩猟を好み放蕩、弾(弾丸)で人を傷つけることを好み軍中で嫌われた。石勒が母に殺害を諮ると、母は「快牛も犢子の頃は車を壊すもの、しばし堪えよ」と諭した。
- 十八歳で少し行いを改める。身長七尺五寸、弓馬に長じ当代随一の勇士とされ、石勒に重用され征虜将軍に任じられた。将軍郭栄の妹を娶るが、寵姫鄭桜桃に惑い郭氏を殺害、続いて清河崔氏を娶るも桜桃の讒言で殺害するなど酷虐であった。軍中の有能な者は次々と害され、陥落させた城では老若男女を問わず殺戮したが、石勒は季龍の武才を惜しみ専征の任を委ねた。
石勒政権下での栄達
- 石勒が襄国に拠ると魏郡太守・鄴三台の鎮将に任じられ、後に繁陽侯。石勒が大単于・趙王を称すると単于元輔・都督禁衛諸軍事に、さらに侍中・開府、中山公に進む。石勒の僭号後は太尉・守尚書令・王(食邑万戸)に進む。
- 季龍は自らの功が最大であるにもかかわらず、石勒が単于位を子の石弘に授けたことを深く恨み、子の石邃に「二十余年、南は劉曜を捕らえ、北は索頭を走らせ、東は斉魯を平らげ、西は秦雍を定め十三州を平定したのは自分だ。大単于の望みは自分にあるはずが黄吻の子に授けられた」と怒りを漏らし、石勒没後は石弘の血統を残さぬ意を示した。
咸康元年(335年) 趙天王僭称
- 咸康元年、季龍は石弘を廃し、群臣に推されて「居摂趙天王」を称し、建武と改元。夔安を太尉、郭殷を司空、韓晞を尚書左僕射などに任じ、子の邃を太子に立てた。
- 徐州従事硃縦が刺史郭祥を殺して彭城で帰順、季龍配下の王朗がこれを討ち、縦は淮南へ逃走。
- 季龍は遊興にふけり政務を怠り、邃に尚書奏事の可否・牧守選任・郊廟祭祀を代行させ、征伐・刑断のみ自ら決した。観雀台崩落で典匠少府任汪を誅し、規模を倍にして再建させた。
- 南方への侵攻(歴陽・襄陽包囲)を行うも荊州の毛宝・王国らの救援で撃退される。租税運搬制度を整え、冀州の雨雹被害には自ら責を負い減税を行った。
咸康二年(336年) 鄴遷都と土木事業
- 洛陽の鐘虡・九龍・翁仲・銅駝・飛廉像を鄴に移す大工事を敢行、河に沈んだ鐘を数百人がかりで引き揚げた。三年一考の官吏考課制(九品制)を復活させる詔を発する。
- 索頭の郁鞠が三万の衆を率いて降る。長年の労役・旱魃・穀高で民が窮乏する中、鄴の南に飛橋を築こうとして数千億の費用を投じるも失敗、民の困窮に配慮して救済策も講じるが官吏の横領で実効薄かった。
- 襄国の太武殿・鄴の東西宮が完成。太武殿は基壇高さ二丈八尺、地下に伏室を設け衛士五百人を配置、豪奢を極めた。後宮に霊風台九殿を築き士庶の娘一万余人を集め、女官十八等・女太史・女鼓吹を置き、民間の星占学習を禁じた。
- 左校令成公段が造った庭燎(高さ十余丈)の火が漏れて死者七人を出し、季龍は激怒して成公段を斬った。
咸康三年(337年) 大趙天王即位
- 殷周の制に倣い、咸康三年に「大趙天王」を僭称し南郊で即位、大赦を行う。祖父邪を武皇帝、父寇覓を太宗孝皇帝に追尊、鄭氏を天王皇后、邃を天王皇太子とする。親王は郡公に、藩王は県侯に格下げされた。
- 武郷長城の徙民韓強が玄玉璽を得て献上、季龍は「望むところでない」と一旦辞退したが、中書令王波が『玄璽頌』を奉る。実はこの璽は石弘の代に作られたもので、韓強が拾って献じたに過ぎなかった。
石邃の乱行と誅殺
- 太子邃は政務を総覧して以降、酒色に耽り驕慢放埒。田猟・夜遊び・臣下の妻妾との淫行を重ね、美しい宮人を斬首して血を洗い流し見せ物にし、比丘尼を凌辱の上殺して羊肉と煮て食すなど凄惨を極めた。異母弟の河間公宣・楽安公韜が季龍に寵愛されるのを妬み、季龍からの度重なる叱責に恨みを深めた。
- 邃は側近の李顔らに「冒頓(父を弑した匈奴単于)の故事を行いたい」と漏らすが従う者なく、酔って断念。母鄭氏が咎めた使者を殺害。季龍が遣わした女尚書を斬りつけたため季龍は激怒し、李顔ら三十余人を誅殺。邃を幽閉後赦免するが、朝見の礼を欠いたため庶人に廃され、その夜、邃と妻張氏、子女二十六人を共に一つの棺に葬るかたちで殺害、宮臣・党与二百余人も誅された。鄭氏は東海太妃に落とされ、子の宣が皇太子、宣の母杜昭儀が皇后に立てられた。
妖賊の乱
- 安定の侯子光が自ら「仏太子」と称し「李子楊」と改名、爰赤眉のもとで妖しの言を弄して信を得、京兆の樊経・竺竜・厳諶・謝楽子らと杜南山に数千人を集め大黄帝・龍興と号したが、鎮西石広に討たれ斬られた。斬られても頸から血が出ず十余日たっても生前と変わらぬ顔色であったという。
対外遠征――段遼・慕容皝との抗争
- 季龍は遼西の鮮卑段遼討伐を計画、桃豹・王華の水軍十万、支雄・姚弋仲の歩騎十万を先鋒とする。漁陽太守馬鮑ら四十余城が降り、段遼は令支を捨て密雲山に逃れ、母妻を奪われ将三千を失う。その後戸二万余を雍・司・兗・豫四州に移す。
- 慕容皝は当初季龍に臣従を称し段遼討伐への合流を約したが軍を出さなかったため、季龍は棘城を攻めるも慕容恪の奇襲を受け大敗、太史令趙攬の諫言を退けたことを後悔し再任した。
- 段遼が偽って季龍に降を請い、征東麻秋が出迎えたが、実は慕容皝の伏兵に襲われ麻秋軍は大敗(死者十六七割)。段遼は最終的に子の乞特真を通じて季龍に降を上表し、その戸二万余を四州に移した。
内政の乱れと苛政
- 石宣を大単于とし天子の旌旗を建てさせる。夔安を征討大都督として荊揚北鄙を攻めさせ、石閔・硃保らが戦果をあげるが将軍多数が戦死。夔安は七万戸を掠めて帰還。
- 中謁者令申扁が石宣とも結び権勢をふるい、九卿以下が阿った。豪戚の横行を憂えた季龍は御史中丞李矩を登用して粛正させる。
- 雍・秦二州の名族十七姓を兵役から免除。李農を営州牧に任じ令支に鎮させる。旱魃・白虹の異変に際し季龍は詔して山沢の禁を解き、流刑の裁量を厳格化した。
- 慕容皝討伐のため司冀青徐幽并雍七州から五丁につき三丁の徴発を行い、鄴の旧軍と合わせ五十万の大軍を編成、船一万艘・穀豆千百万斛を安楽城に運ばせる。
諫言と粛清
- 侍中韋謏が畋猟・微行を諫めるが季龍は聞き入れず狩猟を続けた。右僕射張離が石宣に媚びて諸公の吏兵を削減する策を進言、東宮に五万の兵を集中させたため諸公の怨みを買った。
- 済南平陵の石獣が一夜で移動したという瑞祥を口実に江南遠征の徴発を強行、民は子を売ってまで軍需に応じ、道に自経する者が絶えなかった。泰山の石が自然発火するなど怪異が相次ぎ、太武殿の壁画の賢人像が胡人の姿に変じるなど不吉な兆しが続いた。
- 中謁者令申扁が生殺与奪を専断し権勢を極める。州郡の官馬一万四千匹余を徴発。鎮北宇文帰が段遼の子蘭を捕らえ献上、駿馬一万匹も献上された。
- 涼州出兵では季龍軍の張伏都が張駿配下の謝艾に敗れる。一方で経学を慕い国子博士を洛陽に派遣し石経を写させ、聶熊に『穀梁春秋』の注を作らせるなど学問振興策もとった。
石宣・石韜の確執
- 燕公石斌が酒色にふけり張賀度の諫言に怒って辱めたため季龍が杖百に処す。石宣の淫虐が日増しに募るが誰も告げられぬ中、領軍王朗が諫めて季龍が対応。太史令趙攬が石宣の意を受け「熒惑の変を鎮めるには王姓の貴臣を当てるべし」と進言、季龍は当初王朗を惜しみ次点の王波を選び、以前の失策(李宏送還・楛矢答礼の一件)を口実に王波と四子を腰斬・水没させたが、後に無実を憐れみ司空を追贈した。
- 平北尹農が慕容皝の凡城を攻めるも失敗し庶人に落とされる。李寿が建寧など五郡を挙げて降る。河橋建設の失敗(黄河の中州工事)で工匠を殺して工事を停止。
- 季龍は石宣・石韜に隔日で政務決裁を委ねる。司徒申鐘が二頭政治の危険を諫めるが従わず。太子詹事孫珍と侍中崔約の諍いから崔約父子が誅殺され、孫珍が石宣の寵を得て台頭。
- 関中鎮将の義陽公石鑒が民の髪を強制徴発した一件が発覚し召還される。季龍は狩猟のための巨大な猟車・行楼を造らせ、御史に禽獣被害を口実に百姓を誣告させるなど苛政が続いた。
女官徴発と諫言の弾圧
- 女官の制度を拡充し、諸公侯七十余国にも女官を置かせ、十三歳から二十歳の女子三万余人を徴発、美色ある人妻を奪う例が九千余に及び、多くの女性が自殺した。金紫光禄大夫逯明の切諫に季龍は激怒しこれを殺害、以後朝臣は口をつぐんだ。
- 尚書硃軌が中黄門厳生の讒言により処刑され、これを機に私論を禁じる法・密告制度が敷かれ言論統制が強まる。冠軍苻洪が聖王と亡君の対比を引いて硃軌の赦免と土木事業の停止を諫め、季龍はこれを容れずとも罪には問わず、二京(長安・洛陽)の工事のみ停止した。