晉書卷百七 載記第七 石季龍下
石閔(冉閔、字は永曾、幼名棘奴)は、元来漢人の冉氏の出で、父冉瞻が石勒に捕らえられて石季龍の養子となったことから石姓を名乗った。果断で武勇に優れ、石鑒を殺して自立し、大魏を建てて姓を冉氏に復したが、まもなく前燕の慕容儁に敗れ捕らえられ、処刑された。
石季龍(石虎)――晩年の乱行と後継争い
- 永和三年(347年)、季龍は自ら桑梓苑で藉田の礼を行い、妻杜氏は近郊で先蚕を祀り、襄国の石勒墓に詣でる。中書監石寧を征西将軍として麻秋の後継とし、涼州の張重華勢力と一進一退の攻防を続ける。氐羌十余万落が去就に迷う中、河湟の攻防で両軍に一進一退があった。
- 石勒・季龍は貪欲かつ無礼で、十州の富を有してなお満足せず、歴代帝王・先賢の陵墓を発掘して財宝を奪った。趙簡子墓(邯鄲城西)を掘るも泉水が尽きず断念、秦始皇陵を暴いて銅柱を鋳造用に奪う。
- 沙門呉進の進言により華林苑・長牆を鄴北に築く大工事を発動、男女十六万人・車十万乗を動員。趙攬・申鐘・石璞らの諫言に激怒し「垣が完成すれば夕に死んでも構わぬ」と昼夜工事を急がせ、暴風雨で数万人が死亡。北城を穿って水を引いた際にも城壁が崩れ百余人が圧死した。
- 石宣に山川祭祀の名目で巡遊を命じ、天子の旌旗を掲げ十六軍十八万の兵で盛大な狩猟を行わせる。季龍はこれを眺めて「わが父子はこの通り、天崩地陥せぬ限り憂いなし」と喜んだが、猟の統制は過酷を極め、獣を逃した者は爵位に応じ処罰され、士卒の凍餓死者は一万人余に及んだ。石韜にも同様の巡遊を命じたところ、石宣は弟石韜への寵愛を妬み、両者の間に暗闘が生じた。
石韜の殺害と石宣の凄惨な処刑
- 石韜が太尉府に「宣光殿」(梁の長さ九丈)を建てたことに石宣が激怒して梁を切らせ、韜がさらに十丈に増築したことから石宣は楊柸・牟成らに韜暗殺を命じる。夜、獼猴梯で忍び入った刺客が石韜を殺害。季龍は悲嘆のあまり気絶し、司空李農の諫めで喪に臨むのを控えた。石宣は喪に臨んでも哭かず遺骸を嘲笑って去った。
- 建興の民、史科の密告により陰謀が発覚。季龍は石宣を捕らえ、顎に鉄環を通して鎖につなぎ、豚犬同然に木槽で食事を与える辱めを与えた上、鄴北に薪を積んだ台を築き、髪と舌を抜き、手足を断ち眼をえぐって石韜と同じ傷を負わせ、生きたまま焚殺した。季龍は昭儀以下数千人と共にこれを高台から見物し、灰を各門の交差路にまいた。石宣の妻子九人も殺害、幼い末子は季龍が助命を望むも大臣らに阻まれ、抱いたまま殺された。東宮の衛士十万余人も涼州へ流刑となり、東宮は豚牛小屋にされた。石宣の母杜氏は庶人に落とされた。
太子世の擁立と季龍の死
- 太尉張挙の進言を受け、季龍は劉曜の娘(劉氏)所生の少子・石世(斉公)を太子に立てようとする。張豺の勧めもあり、公卿の反対(大司農曹莫の抗議)を押し切って石世を皇太子、劉氏を皇后とした。
- 病がやや癒えた季龍は永和五年(349年)、南郊で皇帝に即位し「太寧」と改元、大赦を行う。
- 涼州に流された東宮謫卒(高力)ら一万余人が雍城で虐待され、梁犢を首領に反乱(梁犢の乱)を起こす。反乱軍は張茂を大都督に擁立し秦雍の城戍を次々陥落させ長安に迫るも、燕王石斌の精騎一万に滎陽東で大敗、討滅された。
- 季龍の病篤きに際し、石遵を大将軍として関右に鎮させ、石斌を丞相、張豺を鎮衛大将軍に任じ後事を託す。皇后劉氏と張豺は石斌が輔政すれば太子世に害を及ぼすと恐れ、偽って石斌を油断させたうえ官を奪い軟禁、季龍の命と偽って張豺の弟張雄に殺させた。季龍は臨終に「遵に会えなかったのが恨めしい」と嘆いた。侍中徐統は禍の兆しを察して服毒死。まもなく季龍も没した。咸康元年(335年)に僭立してより太和六年に至るまで、在位十五年であった。
石世――張豺専権と三十三日の在位
- 石世が即位すると劉氏を皇太后として臨朝させ、張豺を丞相とする。張豺は石遵・石鑒を左右丞相に置いて懐柔しつつ、李農誅殺を謀るが計画が漏れ李農は上白に逃れ、乞活数万家を糾合して籠城した。
- 石遵は季龍の死を聞き李城に軍を進め、姚弋仲・苻洪・石閔らに推されて張豺討伐の兵を挙げる。張豺は上白の囲みの軍を急遽呼び戻すが間に合わず、劉氏は石遵を丞相・大都督・録尚書事に任じて宥めようとするも、石遵は鄴に入城して張豺を捕らえ平楽市で処刑、三族を滅ぼした。石世は譙王に封じられたが間もなく劉氏ともども殺害された。石世の在位はわずか三十三日であった。
石遵――簒奪と短い治世
- 石遵は李農を赦し復位させ、母鄭氏を皇太后、妻張氏を皇后、石斌の子衍を皇太子とし、石鑒・石沖・石苞・石琨・石閔らに輔政させる。太武・暉華両殿が火災に遭い一月余燃え続けるなど凶事が続いた。
- 薊に鎮していた石沖が石遵の簒奪を怒り五万の兵を挙げるが、石遵の赦書に一度は矛を収めかけたところ部下に説得され進軍、平棘の戦いで石閔らに大敗し捕らえられて賜死、士卒三万余人が生き埋めにされた。
- 季龍を顕原陵に葬り武皇帝・太祖の廟号を追諡。晋の褚裒の南征軍は李農の迎撃で撤退、石苞は長安で反乱を企てるも司馬勲の介入で失敗し鄴に護送された。
- 石遵は挙兵時に石閔へ「事成れば汝を後継者とする」と約したが、実際には石衍を太子に立てたため石閔は失望し、殿中の将士や旧東宮の高力らを厚遇して私恩を結ぶ。石遵は中書令孟准らの進言で石閔の兵権を削ろうとし、石閔は李農・王基と謀って石遵を捕らえ、琨華殿で殺害、鄭氏・皇太子衍らも誅殺した。石遵の在位は百八十三日であった。
石鑒――胡漢相克の果て
- 石鑒は即位して大赦、石閔を大将軍・武徳王、李農を大司馬とするが、密かに石苞らに石閔・李農の暗殺を命じ失敗、逆に発覚を恐れて実行者を粛清する。
- 襄国の石祗が姚弋仲・苻洪と結んで石閔・李農討伐の兵を挙げる中、龍驤孫伏都・劉銖ら羯族三千が石鑒を擁して石閔らを攻めるが敗れ、石閔・李農は宮門を破って入り、石鑒を確保。以後石閔は胡人排斥令を発し、「趙人が胡人の首一つを鳳陽門に届ければ官位を進める」との布告により一日で数万の胡人が殺され、被害総数は二十余万人、高鼻多鬚というだけで殺された漢人も多数出た(冉閔の胡人虐殺)。
- 石琨・張挙・王朗らが七万の兵で鄴を攻めるが石閔に大敗。石閔・李農は石鑒の陰謀(張沈らを鄴に招き入れる企て)を察知し石鑒を廃して殺害、季龍の孫三十八人を誅して石氏を根絶やしにした。石鑒の在位は百三日であった。
- 季龍の末子石混は永和八年(352年)、建康に降ろうとしたが捕らえられ処刑された。季龍の十三子のうち五人は冉閔に殺され、八人は互いに殺し合い、混の死をもって全滅した。石勒の咸和三年の僭立から二主四代・二十三年を経て、永和五年(349年)に滅んだ。
石閔(冉閔)――魏建国とその滅亡
- 石閔、字は永曾、幼名棘奴。父冉瞻(字弘武)は元来漢人で本姓冉、名良。魏郡内黄の出身で先祖は後漢の黎陽騎都督を代々世襲。石勒が陳午を破った際、十二歳であった瞻を捕らえ季龍の養子とした。石閔は幼くして果断、身長八尺、謀略と武勇に優れ、慕容皝との戦いで唯一軍を全うするなど武名を高めた。
- 永和六年(350年)、石鑒を殺した石閔は司徒申鐘らに推されて皇帝に即位、国号を「大魏」、姓を冉氏に復し「永興」と改元。祖父冉隆を元皇帝、父冉瞻を烈祖高皇帝に追尊、李農を太宰・斉王とする。しかし各地の胡族勢力は服さなかった。
- 襄国の石祗が皇帝を僭称し諸方の異民族勢力が呼応。冉閔は李農と三子を誅殺し、石琨の十万の軍を邯鄲で大破するなど各地で勝利を重ねるが、襄国攻めでは石祗・姚襄・慕容俊の援軍・石琨の三面挟撃を受け大敗、単騎で鄴に逃げ帰る。冉閔配下の胡人降将が皇太子冉胤らを石祗に引き渡し殺害させ、多数の重臣を失った。以後、飢饉と流民の相互殺戮で人口が激減した。
- その後冉閔は再起し石祗配下の劉顕軍を撃破、劉顕が石祗を殺して降を請うなど一時勢力を回復するが、慕容俊の燕軍が幽・薊を制圧し南下。冉閔は慕容恪との魏昌城の戦いで奮戦するも、恪の鉄鎖連馬・伏兵戦術により大敗、乗馬「硃龍」が急死したところを捕らえられ薊に送られた。慕容俊に「奴僕の身でなぜ天子を僭称したか」と詰問されると「天下大乱の中、夷狄の汝らこそ簒逆せんとするに、我は一時の英雄、何ゆえ帝王たり得ぬか」と答え、鞭打たれた末に龍城で斬られた。斬刑の地・遏陘山では周囲七里の草木が枯れ、蝗害と長期の旱魃が起きたため、慕容俊は使者を遣わし「武悼天王」と諡した。永和八年(352年)のことである。
- なお、鄴城は慕容評の包囲により飢餓に陥り、宮人の多くが食い尽くされる惨状となった。冉閔の子冉智は晋への帰順を求めたが、晋の戴施が伝国璽のみを奪って撤退し、鄴は開城、冉閔の妻子・重臣らは薊に送られた。
史論
- 史臣は論じて言う。溺れる者を救い焼ける者を助けるのは帝王の務めであり、凶暴を極めるのは戎狄の所業である。雑種の蛮族は塞外に閉じ込めてもなお侵犯を恐れるべきものであるのに、まして中原に入り込み晋の政を窺うに至っては、乱世の隙に乗じて天の常道を乱すものというべきである。
- 石勒は羌渠の出自で異相の持ち主とされ、若き頃から非凡さを見出されていた。恵帝の統治崩壊に乗じて群盗を糾合し晋の都邑を荒らし民を殺戮したのは、天が晋の徳を厭うて妖孽を仮したものか。しかし敵に臨んでは知略に富み、魏武(曹操)を嗤い劉琨に応答するなど気概があり、燕・趙を跨ぎ韓・魏を併呑し、旧都を保って王室に対抗するなど、凶暴とはいえ一時の傑物であった。ただし後継を託す人物を誤り、身が滅び後嗣も絶え、業は養孫(石虎)の手に渡ったのは、人を知る明に欠けていたためである。
- 石季龍は心に徳義を欠き、幼くして軽薄険悪、羊の質に豹の皮を借り、狼の性に梟の心を馳せる者であった。当初から怨みを抱き、ついに簒奪に至る。窮まりない驕奢と頻繁な労役、絶えぬ干戈、厳酷な刑政により民は逃げ場を失った。戎狄の残虐さもここに極まったといえよう。やがて父子・兄弟が互いに疑い合い、殺し合って天下の笑いものとなった。墓土も乾かぬうちに禍乱が続き、張豺に端を発した内紛は冉閔によって一族が滅ぼされた。悪行を積めば滅びるのは天道であろう。逆に従えば凶事が影のように応じ、咎は巡り回って必ず報いを受ける――石勒(世龍)が晋人を殺戮した酷さは、そのまま冉閔(永曾)が羯族を誅殺した酷さとして返された。無徳に報いなしとは、まさにこのことをいう。
- 賛にいう。中朝の勢い振るわず、蛮狄が覇を争った。塵は五嶽に舞い、霧は日月星を暗くした。狡猾な石氏は乱に乗じ兵を窮めた。禍を流し邑を剽い城を屠り、群盗より起こって帝号を仮り騙った。凶醜と侮るなかれ、これもまた一時の英雄であったのだ。季龍の簒奪と淫虐はその名を広く伝え、身は喪われ国は滅んだ――禍が満ちたことに由るものである。