晉書卷百四 載記第四 後趙錄一 石勒(字世龍、初名㔨)
出自と若き日
- 石勒は上党武郷の羯族で、匈奴の別部・羌渠の末裔。父は周曷朱(乞冀加)。誕生時に光が満ちたなどの瑞兆が伝わる。14歳で洛陽に行商に出た際、王衍がその声望から「将来天下の患いとなろう」と評し捕えようとしたが間に合わなかった。
- 郭敬・甯駆らの助けで飢えを凌ぎ、後に東嬴公騰の徴発で異民族が売られた際、師懽の奴隷となった。老人の予言や鹿を助けられた恩による夢告などの霊験譚が語られ、汲桑の下で王陽・夔安ら「十八騎」を糾合して盗賊集団を形成した。
汲桑との挙兵と敗北
- 成都王穎配下の公師藩の挙兵に加わり、石を姓とすることを命じられた(石勒の名の由来)。公師藩の死後は汲桑と共に東嬴公騰を討ち鄴を陥落させたが、苟晞・王浚らに敗れ、汲桑は戦死。石勒は単身で落ち延びた。
劉元海への帰順と台頭
- 上党の胡族・張㔨督の陣営に身を投じ、これを説いて劉元海に帰順させた(元海は勒を輔漢将軍・平晋王とした)。同様の策で烏丸の張伏利度の部衆も奪って帰順させるなど、調略に長けた。
- 劉聰の壺関攻めで先鋒として功を挙げ、元海の漢称号の下で平東大将軍などに叙せられた。鄴を陥とし冀州各地を席巻、集めた士人を「君子営」として遇し、張賓を謀主に迎え、刁膺・張敬・夔安・孔萇・支雄ら腹心を整えた。
河北平定と洛陽・長安戦への参加
- 王浚配下の鮮卑軍に敗れることもあったが、諸城を降し勢力を拡大。劉聰配下として洛陽攻めに加わり(永嘉の乱、311年)、東海王越の軍を破って王衍・司馬範ら西晋の王公・重臣多数を捕殺した(越自身は陣没)。
- 苟晞・王弥を捕えて配下に加えたが、王弥が己に取って代わる野心を持つと見て張賓の勧めにより已吾で謀殺し、その軍を併合した。
幽州の王浚攻略
- 張賓の策により、いったん王浚に称藩し油断させた上で奇襲、王浚を捕らえて斬った(王浚は幽州の実力者であった)。これにより河北の大半を平定。
- 劉琨からの帰順の誘いは拒絶し、あくまで独自の勢力拡大を図った。
江南遠征の失敗と襄国への拠点確立
- 一時は葛陂に拠って建鄴(東晋の都)攻略を企図するも、長雨による疫病で頓挫。張賓の進言(「鄴・襄国は山河の険により拠るべき地」)を容れ、北帰して襄国に都を定めた。
- 以後、劉演・段匹磾・鮮卑段部(段末柸ら)との攻防を経て河北・幽州方面を制圧。段末柸を養子とするなど懐柔策も併用した。
劉聰死後の靳準討伐と趙王への布石
- 劉聰の死後、その子劉粲が靳準に殺される内乱(前巻既述)に際し、石勒は張敬を先鋒に平陽へ進軍。劉曜と主導権を争いつつ靳明を討ち、元海・聰の墓を修復した。
- 劉曜からは太宰・趙王などの称号を受けたが、腹心の曹平楽の讒言が発覚したことなどから曜との関係は悪化し、独自に趙王・趙帝の号を名乗る意志を固めていく。
群臣による趙国建国の上表
- 石虎(季龍)・張敬・張賓ら文武百二十九人が上表し、劉備の蜀漢・魏王曹操の鄴における故事に倣い、河内・魏郡など二十四郡・戸二十九万をもって趙国を建てるよう請願。石勒は五度辞退した末にこれを許した(後の趙王即位の布石、続巻に記す)。