晉書卷百三 載記第三 前趙錄三 劉曜(字永明)
劉曜(字は永明)は劉元海の一族の子で、幼くして孤児となり元海に養われた。前趙(漢)の第三代皇帝で、靳準の乱の後に即位し国号を趙と改め、都を長安に遷した。石勒との対決に敗れて捕らえられ、殺害される。
出自と若き日の逸話
- 劉曜は元海の一族の子で、幼くして孤児となり元海に養われた。8歳の時、狩りの途中で雷に打たれた木の傍らでも顔色一つ変えず、元海に「わが家の千里の駒」と評された。身長9尺3寸、腕は膝まで届き、眉は白く目に赤い光があったという異相で、兵書に通じ弓の名手であった。
- 洛陽で罪を得て朝鮮に逃亡した後、赦されて管涔山に隠棲。夢に現れた童子から神剣を授かる逸話が伝わる。
靳準の乱と即位(太興元年=318年)
- 元海の代に相国・都督中外諸軍事として長安に鎮していたが、靳準の乱(前巻既述)に際して長安から駆けつけ、赤壁で太保呼延晏らに皇帝への即位を勧められた。太興元年(318年)即位、靳準一族を除いて大赦し、改元して光初とした。
- 靳準はまもなく部下に殺され、尚書令靳明が璽綬を捧げて曜に降った。曜は明も含め靳氏を皆殺しにし、長安に都を移した。国号を趙とし、水徳を承ける(金行の晋に代わる)とした。
内政と儒学振興
- 長楽宮東に太学、未央宮西に小学を建て、篤学の士に子弟を学ばせた。侍中の喬豫・和苞が宮殿造営や陵墓の過度な壮大化を諫めると、曜は感謝してこれを容れ、壽陵の規模を縮小した。
- 終南山崩壊に伴う「予言の玉」を巡って中書監劉均が凶兆と解し、御史が不敬として弾劾したが、曜は劉均の忠言を評価して罪を問わなかった。
陳安との攻防(隴右平定、太寧元年=323年頃)
- 隴上の陳安が自立して大都督・涼王を称し、上邽で対峙。遊子遠の献策により氐羌の反乱を懐柔しつつ討伐を進め、最終的に陳安は隴城に包囲されて敗死した。隴上の人々は陳安を悼み歌謡(隴上歌)を作ったという。
- 光禄大夫遊子遠の諫言(尹車謀反事件での過剰な誅殺を諫めた件)や、忠臣呼延実・魯憑らの壮絶な最期も記される。
涼州・仇池の服属
- 大軍を率いて黄河沿いに布陣し、涼州刺史張茂を威圧して降伏させ、涼王に冊封した。仇池の氐王楊難敵も一時称藩したが、後に反覆した。
- 田崧(益州刺史)は氐の難敵に降伏を強いられても屈せず殺された。
太子廃立問題
- 世子劉胤(靳準の乱で行方不明となり、後に帰還)の才を愛した劉聰の遺言を根拠に、曜は既に立てていた太子熙(羊氏所生)を廃して胤を立てようとしたが、群臣の反対と胤自身の固辞により見送られた。
石勒との対決と敗北(太寧2年〜咸和3年頃=324年〜328年)
- 石勒配下の石虎(季龍)との洛陽争奪戦が激化。劉岳の軍が金墉で石虎に大敗し、1万6千の兵が生き埋めにされる惨事となった。
- 咸和3年(328年)、曜は自ら洛陽を包囲するが、大酒を飲んで出陣し落馬、石堪に捕らえられて石勒の下に送られた。石勒は曜を丁重に扱ったが、後に曜が子の熙に徹底抗戦を命じたことに怒り、これを殺害した。
- 曜の太子熙・南陽王劉胤らは上邽に退いたが、石虎に攻められて敗死。曜の一族・重臣ら多数が殺され、前趙は滅亡した。曜は在位10年。元海の永嘉4年(310年)の即位から数えて3代27年、成帝咸和4年(329年)に滅んだ。
史論
- 史臣は、異民族は利を見て君臣の恩義を忘れる者だが、劉元海は人傑であり、八王の乱に乗じて漢の後継を称し天下に覇を唱えたことを評す。ただし結局は夷狄の国に過ぎず、君臣の分をわきまえぬ点で本質は変わらないとする。
- 劉聰(玄明)については、当初は威権を確立し洛陽・長安の二京を陥れる功があったが、次第に武を恣にして忠臣を害し、宦官・寵姫に溺れて国を傾けたと批判。懐帝・湣帝を辱めた罪は極めて重いが、聰自身は天寿を全うした点を「不幸ではない」と皮肉る。
- 劉曜については、天資勇猛で用兵に長じたが、殺戮を好んだ点も評される。遊子遠・和苞ら忠臣の諫言を容れた美点もあったが、驕りにより強敵(石勒)に付け入る隙を与え、酒に溺れて敗死したことを惜しむ。
- 賛(韻文)では、匈奴の興隆から前趙滅亡までを概括し、古の識者(郭欽・辛有)が異民族の禍を予見していたことに言及して結ぶ。