晉書卷九十八 列傳第六十八 桓溫

桓溫、字は元子、宣城太守桓彝の子。南康長公主を娶り駙馬都尉となる。蜀の李勢を平定し三度の北伐を行うなど東晋随一の権臣となったが、枋頭の敗戦後は簒奪の野心を強め、廃立を断行しながらも九錫を受けぬまま没した(312–373年、享年六十二)。

年表(4件)
  • 永和二年李勢の蜀を平定するため西征を開始する
  • 升平年間蜀平定・北伐の功により南郡公に改封される
  • 隆和初め河南への鮮卑の侵入に対処し、自ら洛陽還都を上疏する
  • 太和四年全軍を挙げて北伐し慕容暐の軍を撃破するも、枋頭で大敗する

出自と若年期

  • 桓溫は字を元子といい、宣城太守桓彝の子である。生後まもなく太原の温嶠が見て「この子は骨相が奇なり、試みに泣かせてみよ」と言い、その声を聞いて「まことの英物だ」と評した。嶠に賞でられたことから「温」と名付けられ、嶠は笑って「ならば後にはわが姓に取って代わるだろう」と語った。
  • 父の彝は韓晃に殺され、涇令の江播もこれに関与していた。温は当時十五歳、戈を枕に涙を血涙とし復讐を志した。十八歳の時、播は既に没していたが、その子の彪ら三兄弟が喪に服す中で刃を杖の中に隠して温への備えとしていた。温は弔問客と偽って中に入り込み、廬の中で彪を刺し、続けて二人の弟も追って殺した。世人はこれを称えた。
  • 温は豪爽で風格があり、容貌は雄偉で顔には七つの黒子があった。若くして沛国の劉惔と親しく、惔は「温の眼は紫石の稜のよう、鬚は猥毛を逆立てたようだ、孫仲謀・晋の宣王(司馬懿)の流だ」と評した。南康長公主を娶り駙馬都尉を拝し、萬寧男の爵を襲い、琅邪太守を経て徐州刺史に累進した。

蜀漢平定

  • 温は庾翼と親しく、常に世を安んずる事業を共に期していた。翼は明帝に温を薦め「桓溫には若くして雄略があります、常人扱いせず方伯の任を委ね艱難を弘済する勲功を託されるべきです」と述べた。翼が没すると温は都督荊梁四州諸軍事・安西将軍・荊州刺史・領護南蛮校尉・仮節となった。
  • 李勢の蜀が衰えると、温は蜀での立功を志し、永和二年に西征した。太后(康献太后)臨朝の中、上疏だけして出発した。朝廷は蜀の険遠さと温の寡兵を憂えた。かつて諸葛亮が魚復の平沙に築いた八陣図を温は見て「これは常山の蛇勢だ」と評したが、文武の誰もその真意を解せなかった。
  • 彭模に至ると参軍の周楚・孫盛に輜重を守らせ、自らは歩卒を率いて成都へ直進した。李勢の叔父の福と従兄の権らが彭模を攻めると楚らがこれを防ぎ、福は退いた。温は権らを撃って三戦三捷、賊衆は散り、間道を経て成都に帰った。
  • 勢は全軍を挙げて笮橋で温と戦い、参軍龔護が戦死し衆は退こうとしたが、鼓吏が誤って進軍の鼓を打ったため攻撃に転じ、勢の軍は大潰した。温は勝ちに乗じて小城を焼き、勢は夜のうちに九十里逃れ晋寿の葭萌城に至ったが、将の鄧嵩・昝堅の勧めで面縛輿櫬して降伏を請うた。温は縄を解き柩を焼いて京師に送った。
  • 温は蜀に三十日滞在し賢良を挙げ善政を旌し、偽の尚書僕射王誓・中書監王瑜・鎮東将軍鄧定・散騎常侍常璩らを参軍に用い、百姓は喜んだ。軍が引き揚げる前に王誓・鄧定・隗文らが反したが温は再びこれを討平した。振旅して江陵に帰り、征西大将軍・開府に進み臨賀郡公に封じられた。

殷浩との角逐と関中北伐

  • 石季龍(石虎)の死後、温は北征を志し、まず水陸出兵の可否を朝廷に上疏したが久しく回答がなかった。朝廷が殷浩らに拠って自分を牽制していることを知り憤ったが、殷浩を素より知る温は恐れず、目立った衝突もないまま彼我は年余にわたり牽制し合い、八州の士衆・資調はほとんど国家のために用いられなかった。
  • 温は北伐を宣言し上表するとすぐに出発、順流して武昌まで進み衆は四、五万に及んだ。殷浩は温に廃されることを恐れて逃避を図り、騶虞幡で軍を止めようとし、内外は震撼した。簡文帝(当時撫軍)が温に社稷の大計を説く書を送り疑惑の由来を質すと、温は軍を回して鎮に戻り、上疏して北伐の趣旨は撫軍会稽王への疑心ではなく寇讎への忠誠にあると弁明した。

殷浩の廃黜と関中出兵

  • 太尉に進められたが固辞して受けなかった。殷浩は洛陽の園陵修復に数年を費やしながら戦えば必ず敗れ、器械も尽きた。温は再び司州を督することとなり、朝野の怨みに乗じて浩の廃黜を奏上、以後内外の大権はすべて温に帰した。
  • 温は歩騎四万を統べて江陵を発し、水軍は襄陽から均口に入った。南郷に至り淅川から関中を目指し、梁州刺史司馬勲には子午道から出させた。別軍は上洛を攻め苻健の荊州刺史郭敬を捕らえ、青泥を撃破した。健は子の生と弟の雄に数万を授け嶢柳・愁思塠に拠らせて温を防いだが、生が自ら陣頭に立ち温の将応庭・劉泓を殺すなど死傷千数に及ぶ激戦となった。温は力戦し生の衆は散った。雄も将軍桓沖に白鹿原で破られ、司馬勲を急襲したが勲は女媧堡に退いた。
  • 温は霸上まで進み、健は五千の兵で溝を深くして自守した。住民は安堵して業に復し、牛酒を持って温を路上に迎える者が十のうち八、九に及び、古老は涙して「今日再び官軍を見ようとは」と語った。しかし当初麦の熟すのを当てにしていた温の軍は、健が苗を刈り田野を清野したため糧が続かず、三千余人を収容して撤退した。帝は侍中黄門を遣わし襄陽で温を労った。

劉琨の伎女の逸話と洛陽奪還

  • 温は自らを宣帝(司馬懿)・劉琨に比する雄姿・風気の持ち主と自任していたが、王敦になぞらえられることには不満であった。北方で得た手先の巧みな老婢が実は劉琨の伎女で、温を見るなり潸然と泣いた。理由を問うと「あなたは劉司空によく似ている」と答え、温は喜んで衣冠を整え直して再び問うと、婢は「顔はよく似ているが薄く、目もよく似ているが小さく、鬚もよく似ているが赤く、体格もよく似ているが短く、声もよく似ているが女性のよう」と言った。温は冠を脱ぎ帯を解いて塞ぎ込み、数日楽しめなかった。
  • 母の孔氏が没すると上疏して解職を願い、宛陵への葬送を望んだが詔は許さず、臨賀太夫人の印綬を贈り諡は敬とされ、侍中を弔祭に、謁者を喪事監護に遣わすなど、旬月の間に使者八度に及んだ。温は喪を終えて視事し、園陵の修復と洛陽遷都を求め十余度上疏したが許されず、代わりに征討大都督・督司冀二州諸軍事として専征の任を委ねられた。
  • 温は督護高武を魯陽に、輔国将軍戴施を河上に置き舟師で許洛に迫らせ、譙梁の水路を通じて徐豫の兵を淮泗から河へ入れるよう求めた。自らは江陵から北伐し、金城を経る途上、かつて琅邪太守時代に植えた柳がすでに十囲に育っているのを見て「木すらこれほどなのに、人はどうして堪えられよう」と枝を執って涙を流した。淮泗を過ぎ北境を踏むと、平乗楼に登り中原を眺めて「神州が陸沈し百年も廃墟となったのは、王夷甫らの責めを免れぬ」と嘆いた。袁宏が「運には興廃がある、必ずしも人の過ちではない」と応じると、温は色をなし、劉景升(劉表)の千斤牛が並の牛の十倍食いながら重い荷を運ぶ力は痩せ牛にも及ばず、魏武(曹操)が荊州入りの折これを軍士に供したという故事を挙げて袁宏を暗に難じ、満座は色を失った。
  • 伊水で姚襄と対陣し、温自ら甲を被り弟の沖らと奮撃、襄を大破して数千を自滅させ北芒を越えて西走させたが追撃は及ばず平陽へ逃した。温は旧太極殿の前に屯し金墉城に移り、先帝の諸陵を謁して修復し陵令を置いた。降った賊将の周成を連れ帰り、降人三千余家を江漢の間に移した。西陽太守滕畯を黄城に遣わし蛮賊の文盧らを討たせ、江夏相劉岵・義陽太守胡驥に妖賊李弘を討たせ、いずれも破って首を京都に伝えた。温の軍が引き揚げると司・豫・青・兗は再び賊に陥った。升平年間、南郡公に改封され臨賀は県公に降されて次子の済に与えられた。

洛陽還都の建議と枋頭の敗戦

  • 隆和初め、河南に敵が迫り太守戴施が出奔、冠軍将軍陳祐が急を告げると、温は竟陵太守鄧遐に三千を率いさせ祐を助けさせ、自らも洛陽への還都を上疏した。巴蜀平定と逆胡消滅の機運を語りつつ、河洛の荒廃と山陵の危急を憂え、遠図をもって旧京を光復し華夏を統治すべきだと説き、還都が実現しなければ天下の民は絶望すると訴えた。詔は温の忠誠を賞したが並・司・冀三州への改任にとどめ、都督は交広の遠さを理由に罷免、温は表を上げて辞退した。
  • のち侍中・大司馬・都督中外諸軍事・仮黄鉞を加えられた。温は自身が内外を総督する以上遠方にいるべきでないとして、朋党の抑制、戸口減少に応じた官職の整理、機務処理の期限設定、長幼の礼の明確化、賞罰の適正化、学業の振興、史官の選任による晋書編纂という便宜七事を上疏し、有司はこれを行った。まもなく羽葆鼓吹を加えられ、左右長史・司馬・従事中郎四人を置いた。鼓吹以外は辞退し、舟軍を進めて合肥を取った。
  • 揚州牧・録尚書事を加えられ、侍中顔旄を遣わして朝政への参加を促されると、温は上疏して群凶掃討には天下の智力を挙げて臨むべきなのに朝議が疑い聖詔もなお固いままだと述べ、朝政参加は聞き入れがたいとしつつ、益梁の平定・寧州の帰服・漢川への出兵・蛮の強盛など上流の重責を担う自らの立場を説き、姑孰に留まることの必要を訴えた。詔は許さず再び温を召したが、温は赭圻に城を築き固辞し録尚書事は遙領するにとどめた。鮮卑が洛陽を攻め陳祐が出奔すると、簡文帝は洌洲で温と会し征討を議し、温は姑孰へ移鎮した。哀帝の崩御でこの事は沙汰止みとなった。

僭上の野心の兆し

  • 温は倹約な性質で宴では七奠の柈茶果を出す程度であったが、雄武を恃み非望を窺い、あるとき臥しながら親しい僚属に「これほど平穏では文帝・景帝(司馬師・司馬昭)に笑われよう」と語り、誰も答えられなかった。さらに枕を撫でて起き上がり「後世に流芳できないのなら、いっそ万載に悪名を遺すまでだ」と言い放った。
  • かつて王敦の墓を通りかかった際「見事なものだ、見事なものだ」と語り、その心中はこの通りであった。ある時、遠方から来た比丘尼が別室で沐浴するのを温は密かに覗いたが、尼は裸のまま自ら刀で腹を割き両足を断つ幻を見せた。浴後、温が吉凶を問うと尼は「公が天子となれば、やはりこのようになりましょう」と答えた。

枋頭の戦い

  • 太和四年、再び全軍を挙げて北伐した。平北将軍郗愔が病で解職すると、温は自ら平北将軍・徐兗二州刺史を兼ね、弟の南中郎沖・西中郎袁真とともに歩騎五万で北伐した。百官は南州で祖道し都邑は総出で見送った。
  • 軍は湖陸に進み慕容暐の将慕容忠を破って捕らえ、金郷まで進んだ。折からの旱害で水路が通じないため鉅野三百余里を掘って清水から河に入る運路を開いた。慕容暐の将慕容垂・傅末波らが八万を率いて林渚で迎撃したが温はこれを撃破し、枋頭まで進んだ。あらかじめ袁真に譙梁を攻めさせ石門を開いて運路を通そうとしたが、真は譙梁を平定しながら石門を開けず、軍糧が尽きた。
  • 温は舟を焼いて陸路を退却し、東燕から倉垣に出て陳留を経、井戸を掘りながら七百余里を行軍した。慕容垂は八千騎で追撃し、襄邑で温軍は大敗、死者三万に及んだ。温はこれを深く恥じ、罪を袁真に帰して庶人に廃した。真は温に誣いられたことを怨み、寿陽に拠って自守し密かに苻堅・慕容暐と通じた。

寿陽平定と廃立

  • 帝は侍中羅含に牛酒を持たせ山陽で温を犒い、会稽王昱を途中で温に会わせた。詔で温の世子熙を征虜将軍・豫州刺史・仮節とした。南康公主の薨去に際し布千匹・銭百万を賜ったが温は辞退した。子の熙がまだ三年の喪中で若年ゆえ偏任は不適当だと願い出たが許されなかった。州人を発して広陵城を築き移鎮した。この時、温の行役が長く疫病も重なり死者は十のうち四、五に及び百姓は嗟怨した。
  • 袁真が病死すると将の朱輔がその子の瑾を立て事を嗣がせた。慕容暐・苻堅がそれぞれ瑾に軍を授けると、温は督護竺瑤・矯陽之らを水軍とともに遣わし、武丘で暐軍を破った。温自ら二万を率いて広陵から至り、瑾が籠城すると長囲を築いて包囲した。苻堅は将の王鑒・張蠔らを遣わし洛澗に屯させ精騎五千を先に肥水北に進めたが、温は桓伊・弟の子石虔らに逆撃させこれを大破、瑾の衆は潰えて瑾は生擒され、宗族数十人と朱輔とともに京都で斬られ、乞活数百人は坑にされてその妻子は褒賞に充てられた。温にはこの功で班剣十人が加えられ、文武にはそれぞれ論功行賞があった。

廃立の決行

  • 温は自身の才力を恃んで久しく異志を抱いており、まず河朔で功を立てて九錫を受けようと望んでいたが、枋頭の敗戦で名実が大きく損なわれた。そこで参軍郗超が廃立の計を進言し、温は帝(廃帝海西公)を廃して簡文帝を立てた。詔で温は諸葛亮の故事に倣うこととされ、甲仗百人が殿に入ることを許され、銭五千万・絹二万匹・布十万匹を賜った。
  • 温は多くの官を廃徒し、庾倩・殷涓・曹秀らを誅した。この時の温の威勢は凄まじく、侍中謝安が遥拝すると、温は驚いて「安石、なぜそこまでするのか」と問うたが、安は「未だかつて君が前に拝せずして臣が後で揖する例はありません」と答えた。温は脚に病を得ており、詔により輿に乗ったまま参内し、廃立の本意を陳べようとしたが、帝が数十行も涙を流したため温はかえって畏れ入り、一言も発せず退出した。

郭璞の讖と桓氏の運命

  • かつて元帝・明帝の頃、郭璞は「君に嗣子なきにあらず、兄弟相い禅る」との讖を作った(成帝に子がありながら弟に位を伝えたことを指す)。また「李という姓の者があり、その子は専ら征戦す。譬えば車軸のごとく、一面に脱す」とも言った。「兒」は「子」であり、「李」から「子」と「木」を除けば「亙」となり、「車」から「軸」を除いた形と合わせて「桓」の字となる。さらに「爾来、爾来、河内の大県」とも言い、「爾来」とは温の字である元子を、「河内の大県」とは温そのものを指すとされた。成帝・康帝が崩じて桓氏が勢いを増したため、これらを並べて言われたという。
  • また「子の薨ずるに頼りて我が国祚を延ばす、子の隕つるを痛みて皇運はその暮れなり」ともいうが、この「二子」は元子(温)と道子(会稽王道子)を指す。温は簒奪を志しながら事が成る前に死んだのは幸いであった。会稽王道子は晋国を乱した張本人であり、その死もまた晋の衰亡の由縁であったため「痛」と言われたとされる。

晩年と死

  • 温は白石から姑孰への帰還を求める上疏をし、詔は「乾坤の体が合して万物が化成するように、二人が心を同じくすれば言葉を要さぬ。周公・伊尹の故事を挙げ、大司馬(温)の徳は深遠でその功は霍光に並ぶ」として丞相への進位を命じたが、温は固辞して姑孰への帰還を重ねて願った。侍中王坦之を遣わして入相を促し食邑を万戸に増したが、また辞退した。西府が袁真の一件で軍用不足に陥っていたため世子熙に布三万匹・米六万斛を給し、弟の済を給事中とした。
  • 帝(簡文帝)の病篤くなると、「わが病は篤い、来てくれれば会えるだろう」と一日一夜に四度も詔した。温は上疏し、漢の高祖が病に臥して呂后が丞相を問うた故事、武帝が病んで霍光に後事を託した故事を引きながら、幼帝を支えるべき人材として謝安・王坦之の名を挙げ、自らは老病のため後事を託されがたいと述べた。上疏が奏上される前に帝は崩じ、遺詔は諸葛武侯・王丞相(王導)の故事に倣うよう温に委ねる内容であった。温は簡文帝が禅位するか、あるいは自らが周公のように摂政することを望んでいたため、その期待が外れたことを深く憤り、弟の沖への書に「遺詔は私に武侯・王公の故事に倣えと言うだけだ」と書いた。王導・謝安の類は大事に臨むたびに温の憤りに苦しんだ。

薨去

  • 孝武帝の即位に際し、「先帝の遺勅に『大司馬に事えることは私に事えるようにせよ』とある、答表には敬意を尽くすように」との詔が下され、さらに「大司馬は社稷の寄る所であり、内外の衆事は関わり施行させよ」と加えられた。謝安を遣わして再び温を輔佐に召し、前部の羽葆鼓吹・武賁六十人を加えたが温は辞退した。
  • 温が入朝し山陵に赴くと、「公の勲徳は尊く朕を師保する立場にあり、風患もある故無理な礼はいらない」と詔された。尚書らに新亭で出迎えさせ百僚は道側で拝礼し、当時位望ある者は皆恐懼した。温がこれに乗じて王導・謝安を殺すのではという内外の懸念もあった。温は盧悚が宮中に入った一件で尚書陸始を廷尉に付し怠慢の罪を問うた。
  • 高平陵を拝した際、左右はその様子に異変を感じた。車に乗ってから従者に「先帝が先ほど姿を現された」と語ったが、その言葉の内容は述べなかったため、拝礼の折に繰り返し「臣、敢えてせず」と言っていたことだけが知られた。また左右に殷涓の風貌を尋ね「肥って背が低い」と答えられると、「先ほど帝の側にいるのを見た」と語った。かつて殷浩が温に廃されて死んだのち、涓は気骨を保って温に会おうとせず武陵王晞と交わったため温はこれを疑い殺していたが、この時になってもなお涓の祟りに遭ったと感じ、そのまま病を得た。
  • 温は京師に十四日滞在して姑孰へ帰り、そのまま病に伏した。九錫を加えるよう朝廷に諷示し督促を重ねたが、謝安・王坦之は病篤しと聞いてその手続きを密かに引き延ばした。錫文が成らないうちに薨じた、享年六十二。皇太后と帝は朝堂で三日間喪に服し、詔で九命袞冕の服・朝服一具・衣一襲・東園秘器・銭二百万・布二千匹・臘五百斤を喪事に供した。葬儀は太宰安平献王・漢の大将軍霍光の故事に倣い、九旒鸞輅・黄屋左纛・縕輬車・輓歌二部・羽葆鼓吹・武賁班剣百人を賜り、南郡公の食邑を七千五百戸増して封地を三百里に広げ、銭五千万・絹二万匹・布十万匹を賜り、丞相を追贈された。

後日談と諸子

  • かつて弟の沖が謝安・王坦之への処遇を温に問うと、温は「彼らはお前の処分に従うような者ではない」と答えた。温は自身が存命の間は謝安らも異を唱えないと知っており、彼らを害しても沖には益がなく世評を失うだけだと考え、謀を止めていた。
  • 温には六子がいた。熙・済・歆・禕・偉・玄である。熙は字を伯道といい当初は世子であったが才が弱いとされ、沖に軍を統べさせることになった。温の病中、熙は叔父の沖を殺そうと叔の秘と謀ったが、沖に知られ長沙に流された。済は字を仲道といい熙と共謀して同じく長沙に流された。歆は字を叔道といい臨賀公の爵を賜った。禕は最も愚かで菽麦の区別もつかなかった。偉は字を幼道といい温厚篤実で、藩に居て士庶に慕われ、使持節・督荊益寧秦梁五州諸軍事・安西将軍・領南蛮校尉・荊州刺史・西昌侯を歴任し、驃騎将軍・開府儀同三司を追贈された。玄が爵位を嗣いだが、その事跡は別に伝がある。

孟嘉

  • 孟嘉は字を万年といい、江夏鄳の人、呉の司空孟宗の曾孫である。若くして名を知られ、太尉庾亮が江州を領した際、部の廬陵従事に招かれた。嘉が都に戻ると亮が風俗の得失を問うたところ「役所に戻って役人に問うがよろしいでしょう」と答え、亮は麈尾で口を掩って笑い、弟の翼に「孟嘉はまことに盛徳の人だ」と語った。勧学従事に転じた。
  • 褚裒が豫章太守であった頃、正旦の朝賀で亮に会い、州府の士人が大勢集う中、嘉の席は末席であった。裒が「江州に孟嘉がいると聞くが、どこにいるのか」と問うと亮は「その場にいる、自分で探すがよい」と答えた。裒は見渡して嘉を指し「この方は少し違って見える、もしやそうではないか」と亮に言うと、亮は喜んで笑い、裒が嘉を見出したことを喜び、裒に見出された嘉をますます高く評価した。
  • のち征西の桓温の参軍となり、温に厚く重んじられた。九月九日、温が龍山で宴を開き僚佐が集った際、佐吏は皆戎服であったが、風で嘉の帽子が落ちても嘉は気づかなかった。温は左右に黙らせて様子を見ようとした。嘉が厠から長く戻らずにいる間、温は帽子を取り戻させ、孫盛に嘲る文を作らせて嘉の席に置かせた。戻った嘉はこれを見てすぐに答えの文を書き、その文才の美しさに満座は嘆じた。
  • 嘉は酒を好み、多く飲んでも乱れなかった。温が「酒の何がそんなに良いのか」と問うと嘉は「公はまだ酒中の趣を得ていないだけです」と答えた。また「妓を聴くのに絃は竹に及ばず、竹は肉声に及ばずというのはなぜか」と問われると「次第に近づくからそうなるのです」と答え、満座はこれに感嘆した。従事中郎に転じ、長史に進んだ。享年五十三で家で没した。

史論

  • 史臣は次のように論じる。桓溫は雄豪の逸気と文武の奇才を備え、通人に見出されて早くから令誉を得た。豺狼が猖獗を極め辺境に事の多かった時、寄せられた期待に応えて威略を発揮し、険阻を越えて岷峨(蜀)を平定した独力の功は称賛に値する。洛陽まで進んで五陵を修復し、秦の郊まで旆を進めて三輔に威を及ぼした際も、たとえ凶逆を根絶やしにはできなかったにせよ、王室の威霊を十分に示した。
  • しかしやがて戎馬の権を総攬し形勝の地に拠ると、自ら英猷は世に並ぶ者なく勲績は当代随一と考えるようになった。震主の威を挟み無君の志を蓄え、司馬師・司馬昭に比肩することを望み、王敦に自らをなぞらえ、漢廷を睥睨し周の九鼎を窺うに至った。趙魏で奇功を立てて衆望を集め、その後は前代の帝王の道に倣おうとしたが、石門で道が阻まれ襄邑で軍が破れると、謀略の齟齬を憤り将士の敗北を恥じ、怒りを朝廷に転じ罪を偏裨に帰し、帝を廃して威を立て人を殺して欲を遂げた。天命は求めて得られるものではなく、神器は力で奪えるものではないことを弁えなかったのは、なんと道理に悖ることか。まさに斧鉞を加えるべき所業であり、人神ともに見放すところであった。それでもなお生前は栄寵を極め没後も哀栄を享受したのは、当時の朝政に規律がなく、主上の威権が確立していなかったことを物語っている。
  • 賛にいう。江を渡って南に移り、政は弱く権は分かれた。元子(桓溫)は力で道に背き、處仲(王敦)は勲を恃んで驕った。その足跡は上を陵ぎ、その志には君主がなかった。罪は浞(寒浞)よりも重く、心は舜禹の位を窺った。外では威を樹てて略を巡らし、内では兵を称して侮りを加えた。ただ我が身と嗣子のみが、ついに刑戮の禍に遭ったのである。