晉書卷九十八 列傳第六十八 王敦

王敦、字は處仲、司徒王導の従父兄。武帝の娘襄城公主を娶り、元帝の江東政権樹立に導と共に尽力し「王と馬、天下を共にす」と称された。のち専権を極め二度にわたり挙兵して帝室を脅かしたが、明帝の討伐軍に敗れる直前に病死した(?–324年、享年五十九)。

年表(4件)
  • 建武初征南大将軍に進み、東晋建国とともに侍中・大将軍・江州牧を拝命する
  • 永昌元年劉隗誅伐を名目に挙兵し、劉隗の罪状を並べ立てて弾劾する上表を行う
  • 永昌元年石頭城の戦いで官軍を破って擁兵不朝、周顗・戴若思を殺害し丞相・江州牧・武昌郡公に進む
  • 太寧元年元帝崩御後、召還を諷して姑孰へ移鎮し、揚州牧を自称して専恣を極める

出自と若年期

  • 王敦は字を處仲といい、司徒王導の従父兄にあたる。父の基は治書侍御史であった。
  • 若くして人並外れた器量が注目され、武帝の娘の襄城公主を娶って駙馬都尉に任じられ、太子舍人に転じた。
  • 王愷・石崇が贅を競っていたころ、愷の酒宴で女妓の笛が乱れると愷は即座にその女を殺し、満座が動揺する中で敦だけは平然としていた。後日また愷を訪ねた際、酒を勧める美人が客の飲み残しのたびに殺される場に居合わせても、敦は頑として杯を取らず表情も変えなかったが、導は同席者を助けるために無理に飲み干した。導は帰って「處仲は世に立てば剛忍の性ゆえ善終を得まい」と嘆いた。洗馬の潘滔も敦を見て「蜂の目はすでに露わ、豺の声はまだ響かぬが、いずれ人を噛むか人に噛まれるかだろう」と評した。
  • 太子が許昌へ移された際、東宮の官属は見送りを禁じられたが、敦や洗馬の江統・潘滔、舍人の杜蕤・魯瑤らは禁を冒して道端で拝礼し涙を流し、世に称えられた。給事黄門侍郎に転じた。

永嘉の乱と江東での勢力伸長

  • 趙王倫の簒位の際、敦の叔父の彦は兗州刺史であったが、倫は敦を遣わして彦を慰労させた。諸王が義兵を起こすと、彦は斉王冏の檄に応じることを恐れていたが、敦の勧めで挙兵し功績を立てた。
  • 恵帝の反正後、敦は散騎常侍・左衛将軍・大鴻臚・侍中を経て、広武将軍・青州刺史となった。永嘉初め、中書監に召された。天下大乱の中、敦は公主付きの侍婢百余人をすべて将士に配分し、金銀宝物も民に散じて単車で洛陽へ戻った。
  • 東海王越が滎陽から朝見した際、敦は「威権はすべて太傅にあり、選用も情実に流れている。太傅が来れば必ず誅罰があろう」と語った。果たして越は中書令繆播ら十余人を捕らえて殺した。越は敦を揚州刺史としたが、潘滔は「處仲を江外に植えて豪強の心を放てば、これは賊を招くようなものだ」と諫めた。越は聞かなかった。
  • のち尚書に召されたが就かず、元帝の招きで安東軍諮祭酒となった。揚州刺史劉陶が没すると帝は再び敦を揚州刺史とし、広武将軍を加えた。まもなく左将軍・都督征討諸軍事・仮節に進んだ。帝が江東に鎮した当初、威名はまだ立たず、敦は従弟の導らと心を合わせて帝を支えたため、当時「王と馬、天下を共にす」と言われた。
  • 甘卓らと江州刺史華軼を討ち、これを斬った。

杜弢の乱鎮圧と専擅の兆し

  • 蜀の賊杜弢が乱を起こし荊州刺史周顗が敗走すると、敦は武昌太守陶侃・豫章太守周訪らを討伐に遣わし、自らは豫章に進駐して諸軍の後援となった。侃が弢を破ると敦は侃を荊州刺史に推挙した。侃が弢の将杜曾に敗れると、敦は処置の誤りを理由に自ら広武将軍に降格を願い出たが帝は許さなかった。
  • 弢平定の元帥として鎮東大将軍・開府儀同三司に進み、都督江揚荊湘交広六州諸軍事・江州刺史を加えられ、漢安侯に封じられた。敦は自ら官属を選び置き、州郡を兼統するようになった。
  • 杜弢の将杜弘が広州へ南走し桂林の賊討伐を願い出ると敦はこれを許可した。陶侃が弘を阻めずにいたところ、弘は零陵太守尹奉に降り、奉が弘を敦に送ると敦はこれを将として寵遇した。南康の何欽が険固な地に数千の徒党を構えると、敦はこれにも四品将軍を加え、専擅の跡が次第に顕著になった。

上表と朝廷への牽制

  • 建武初め、征南大将軍に進み開府はそのまま。中興建国とともに侍中・大将軍・江州牧を拝したが、部将朱軌・趙誘が杜曾討伐で戦死すると、敦は自ら降格を願い侍中を辞し、州牧の拝命も辞退した。
  • まもなく荊州牧を加えられると、敦は上疏し、漢の高祖・文帝の故事を引きつつ、段匹磾ら忠節を誓う者に安易に方州を授ける現状を戒め、乱後の恩賞・爵位を自ら以下すべて省くべきだと説き、州牧の号も辞退して侍中の貂蟬を返上したいと述べた。帝は詔で慰留し、州牧はなお辞退させて刺史とした。
  • 劉隗が用事し王氏を疎んじたことに導らが不満を持つと、敦は上疏して導を弁護し、導が受けている過分な寵遇を憂え、自らも管鮑の交わりを約された旧恩を語り、導への信任を続けるよう帝に求めた。この上表は導の手を経て敦に戻され、敦は改めて奏上させた。

劉隗排斥を掲げた挙兵

  • 敦は元来矯厲を尚び清談を好み財色を口にしなかったが、重名と江左での大功を背景に閫外を専任し強兵を掌握、一族も貴顕を極めて権を独占し、朝廷を専制し帝位をも窺う心を抱くようになった。帝はこれを畏れ憎み、劉隗・刁協らを腹心として引き立てたため、両者の嫌隙が生じた。
  • 敦は酒後にたびたび魏の武帝の楽府「老驥伏櫪」を詠じ、如意で唾壺を打って拍子を取り、壺の縁を欠けさせるほどであった。湘州刺史甘卓の梁州転任に際し、敦が従事中郎陳頒への交代を望んだが帝が従わず譙王承を湘州に鎮したこと、また忠臣が讒言によって疑われる古今の例を上疏して帝の感情に訴えたことなどから、帝の警戒はいよいよ強まり、劉隗を鎮北将軍、戴若思を征西将軍として揚州の奴を悉く兵とし、名目は討胡、実は敦への備えとした。
  • 永昌元年、敦は劉隗誅伐を名目に軍を発し、上疏して劉隗が邪佞・讒毀により権寵を得て乱を撓め、士庶を労役に駆り立て奢僭を極め、賦役を偏らせ良人・奴を私利のため取り扱い、流人を酷使し、故人・宰嚭・弘恭・石顯にも比すべき奸悪であると弾劾し、速やかに劉隗を斬るよう求めた。さらに重ねて上疏し、太甲・伊尹や漢武帝・江充の故事を引いて帝に反省を促した。
  • また別の上疏では、帝が揚州に鎮していた頃の善政を称え、劉隗を信任してから刑罰が中らなくなり呉の滅亡前夜のような世評があると訴え、諸軍を早く引き上げさせられるよう朝臣に諮ってほしいと求めた。

石頭城の戦いと専権

  • 敦の党である呉興の沈充が挙兵し呼応した。敦は蕪湖に至り、さらに刁協の罪状を上表した。帝は激怒し、「王敦は寵霊を恃み狂逆を肆にし、朕を太甲になぞらえ幽囚しようとしている。忍びがたい」として自ら六軍を率い、敦を討った者には五千戸侯を与えると詔した。戴若思・劉隗を京師に召した。敦の兄の含は光禄勲であったが敦のもとへ叛奔した。
  • 敦は石頭城に至り劉隗を攻めようとしたが、将の杜弘の進言で先に石頭城の周札を攻めることにした。案の定、周札は少恩で兵に見放され、開城して弘を迎え入れた。官軍は敗れ、敦は石頭城に入って擁兵不朝、兵士に内外の劫掠を放任した。帝は戎衣を脱ぎ朝服を着け、「わが位を望むなら早く言えばよい、私は自ら琅邪に還る、何ゆえ百姓をこれほど苦しめるのか」と語った。
  • 敦は周顗・戴若思を殺害した。丞相・江州牧に任じられ武昌郡公・食邑一万戸に進んだが、加えられた羽葆鼓吹とともに偽って辞退した。武昌に戻って屯し、忠良を多く害する一方、兄の含を衛将軍・都督沔南軍事・領南蛮校尉・荊州刺史とし、義陽太守任愔を督河北諸軍事・南中郎将とするなど、親戚を重用した。敦自身も寧・益二州を督した。

帝崩後の専擅と病没への道

  • 元帝崩御後の太寧元年、敦は自身の召還を朝廷に諷し、明帝が手詔で徴した。応詹を遣わして黄鉞・班剣武賁二十人を加え、奏事不名・入朝不趨・剣を帯びたまま上殿することを許したが、敦は姑孰へ移鎮し、帝が阮孚に牛酒を持たせて労っても病と称して会わず、主簿に詔を受けさせた。王導を司徒とし、敦は自ら揚州牧となった。
  • 敦の専恣はいよいよ甚だしくなり、四方の貢献はことごとく自分の府に入り、将相・岳牧も皆その門から出るようになった。兄の含を征東将軍・都督揚州江西諸軍事、従弟の舒を荊州、彬を江州、邃を徐州とした。含は字を處弘といい凶頑剛暴で世の評判は悪かったが、敦の威光で顕位を歴任した。
  • 敦は沈充・銭鳳を謀主とし、諸葛瑤・鄧岳・周撫・李恆・謝雍を爪牙とした。充らは凶険驕恣を極め、殺戮をほしいままにし、大規模な営府を築いて田宅を侵し古墓を発掘し市道を剽掠したため、士庶は離反し禍敗を予見していた。敦の従弟で豫章太守の棱が日夜切諫すると、敦は怒って密かに殺した。
  • 敦には子がなく兄含の子応を養子としていた。病が重くなると応を武衛将軍として自らを補佐させた。銭鳳が「万一の事があれば後事は応に付すべきか」と問うと、敦は「非常の事は常人の能くする所ではない。応はまだ若く大事を任せられぬ。私の死後は兵を解いて朝廷に帰順し門戸を保つのが上策、武昌に退いて自守し貢献を絶やさぬのが中策、私が存命のうちに全軍で下るのが博打の下策だ」と答えた。銭鳳は党に「公の下策こそ実は上策だ」と語り、沈充と謀って敦の死後に事を起こすことを定めた。

再挙兵と病死

  • 敦は周札を忌んで一族もろとも殺した。常従督の冉曾・公乗雄ら元帝の腹心も殺害した。宿衛が多いことを理由に三番のうち二番を休ませる令も出した。病篤くなると帝は侍中陳晷・散騎常侍虞を遣わして病を問わせ、自らも微服で蕪湖に至って敦の陣営を視察するなど動静を探った。含は驃騎大将軍・開府儀同三司、含の子瑜は散騎常侍に進んだ。
  • 敦は温嶠を丹陽尹に起用し朝廷を覘わせようとしたが、嶠は都に至ると敦の逆謀を明かした。帝は敦を討とうとし、その威が世に畏服されていることを踏まえ、あえて敦の死を偽って詔を下し、司徒導・鎮南将軍丹陽尹嶠・建威将軍趙胤らに討伐を命じ、平西将軍邃・兗州刺史遐・奮武将軍峻・奮威将軍贍らの水陸軍、さらに帝自らの六軍を含む諸軍を動員し、罪は銭鳳一人に限り濫刑は行わないとして、鳳を斬った者に五千戸侯・布五千匹を与えると布告した。功臣の子孫である鄧岳・周撫らは誠意があるとして罪を問わず、敦に用いられた文武百官も一律に不問とする一方、単身で従軍し家族を失った将士には帰郷・免役や三年の休暇を与えると詔した。また「王敦の姓名を捨てて大将軍と称する者は軍法に処す」とも詔した。
  • 敦の病はいよいよ篤く、銭鳳・鄧岳・周撫らに三万の兵を率いさせ京師へ向かわせた。含が「これは我が家の事、私が行こう」と言い元帥となった。鳳らが「事が成った日、天子はどうするのか」と問うと、敦は「まだ南郊も行っておらぬのに、なぜ天子と称するか。ただ兵勢を尽くして東海王と裴妃を保護するだけでよい」と答え、温嶠の罪状を挙げて上疏した。
  • 含が江寧に至ると司徒導が書を送り、大将軍の重病を悲しみつつ、銭鳳の企てへの朝士の憤りを伝え、劉遐・陶瞻・蘇峻らも憂慮し朝廷は既往の掠奪を恐れていること、含の名声への未練を惜しむ気持ち、そして今回の挙兵が桓文の業ではなく簒奪への道であること、安期(応)に宰相を襲わせるのが道理に反すること、鄧岳・周撫らも実は帝側に心を寄せていることなどを説き、速やかに銭鳳一人を除いて天下を安んじるよう勧めた。含は答えなかった。
  • 帝は中軍司馬曹渾らを遣わして越城で含を撃ち、含は敗れた。敦はこれを聞いて「わが兄は老いた婢のようなもの、我が家は衰えた。文武を兼ねた世将・処季(敦の兄弟)はいずれも早世し、今や世事は去った」と怒り、参軍呂寶に「私が自ら行こう」と語り身を起こそうとしたが困憊してまた臥した。
  • 銭鳳らは京師に至り水南に屯したが、帝自ら六軍を率いて防ぎこれを破った。敦は羊鑒と子の応に「私の死後は応がすぐ即位し、まず朝廷の百官を立て、それから葬儀を営め」と言った。かつて病が始まった時、白犬が天から下って自分を噛む夢や、刁協が軺車に乗り従者を従え目を怒らせて左右に自分を捕えさせようとする幻を見ていたという。まもなく敦は死んだ、享年五十九。応は喪を秘し、遺体を筵に包み蝋を塗って庁事の中に埋め、諸葛瑤らとひたすら酒色に耽った。

王敦・沈充の敗死

  • 沈充は呉から一万余の兵を率いて含らと合流した。充の司馬顧揚は「今や天子が既に喉を扼し、士気は離散し勢いも挫けている。柵塘を決して湖水を京邑に灌ぎ舟艦の勢を用いれば戦わずして勝てる上策、初戦の鋭気と東南諸軍の力を併せて十道並進すれば衆寡すでに勝る中策、銭鳳を斬って降れば禍を福に転じられる下策がある」と献策したが、充は用いず、揚は呉へ逃げ帰った。含は再び淮水を渡って進んだが蘇峻らに大敗し、充も陣を焼いて退いた。
  • 周光が銭鳳を斬り、呉儒が沈充を斬り、いずれも首を京師に伝えた。有司は「王敦は滔天の逆を行い無君の心を持った、崔杼・王浚の故事に倣い剖棺戮屍して元悪を明らかにすべき」と議し、遺骸を掘り出して衣冠を焼き刑を加えた。敦・充の首は同日に南桁に懸けられ、見物人は皆快哉を叫んだ。誰も敦の首を収葬する者がなかったが、尚書令郗鑒は王莽・董卓・王淩・徐馥の先例と『春秋』が斉襄の紀侯埋葬を許し魏武が王修の袁譚哭を義とした故事を引き、私的な葬儀は認めるべきだと帝に進言し、許された。含父子は単船で荊州刺史王舒のもとへ逃げたが、舒は人を遣って川に沈めさせ、余党は悉く平定された。

王敦の人物像

  • 敦は眉目が疏朗で、性格はさっぱりしており人物鑑識に優れ、『左氏伝』に通じ、財利を口にせず清談を好んだが、世人はその真価を知らず、族兄の王戎だけがその異才を見抜いていた。軍を指麾すれば千里の外まで粛然としたが、麾下の統率は乱れがちであった。
  • 武帝が名士を集めて技芸を語らせた際、皆それぞれ得意を語る中で敦だけは無関心で不機嫌そうにしていたが、自ら鼓を打つと言い出し袖を振るって撃つと音節が見事に整い、傍若無人な態度に満座がその雄爽ぶりを称えた。
  • 石崇の贅沢な厠で、侍る美貌の婢たちが用意する新しい衣に客の多くが着替えを恥じらう中、敦は平然と古着を脱いで新しい衣に着替え、婢たちは「この客は必ず賊をなす」と噂した。
  • また色に耽り体を損ねたため左右が諫めると、敦は「たやすいことだ」と後閣を開き婢妾数十人を一斉に放逐し、世人はその潔さに驚嘆した。

沈充

  • 沈充は字を士居といい、若くして兵書を好み郷里に勇名を馳せた。王敦に参軍として招かれ、同郡の銭鳳を推薦した。鳳は字を世儀といい、敦は鎧曹参軍として重用した。鳳は敦に不臣の心があると知ると邪説を進め、互いに結託して威権を弄び言葉一つで禍福を左右するようになった。父の喪に服す名目で密かに敦の使者となり、充と結んだ。
  • かつて敦の参軍熊甫は敦が鳳を委任するのを見て変事を予感し、酒席で「国を開き家を継ぐには小人を用いてはならない、佞幸が位にあれば業を敗らぬ例はない」と諫めた。敦は色をなし「小人とは誰のことか」と問うたが甫は恐れず、これを機に帰郷を願い出た。別れに際し「風雲は山陵に湧き起こり、霧は日を蔽い玉石を焼く。過ぎたことは今更嘆けぬが、別れの心はまた会い難きを惆悵す」と歌った。敦は自分を諷したものと知りつつ受け入れなかった。
  • 明帝が敦討伐を計画すると、同郷の沈禎を遣わし充を諭し司空の地位を約束させた。充は「三司の重責は私の任ではない、厚い賄と甘言は昔から人の恐れるところ、丈夫たる者は共に事を始めた以上終始を同じくすべきで、途中で変節すれば誰が私を容れよう」と拒んだ。禎は「忠と順を捨てて滅びなかった者はいない。大将軍は兵を阻んで朝廷に不参、爵賞を思うままにし、五尺の童子でさえその異志を知る。この挙兵はまさに簒弑に至るもので、昔日の挙とは違う。だからこそ諸将は本朝に帰服し内外の士は皆死を致すことを願っている、逆図に協同すべきではない、朝廷の誠意は私が知る通りだ」と諭したが充は聞き入れなかった。
  • 出兵に際し充は妻子に「男児たるもの豹の尾を立てられねば帰らぬ」と語った。しかし敗れて呉興へ帰る途中で道に迷い、誤って旧部下の呉儒の家に入った。儒は充を重壁の中に誘い込み、笑って「三千戸侯だ」と告げた。充は「侯に封じられても貪るには足りぬ。お前が大義で私を助ければ我が一族は厚く報いよう。もし私を殺せば、お前の一族は滅びるぞ」と言ったが、儒はついに充を殺した。充の子の勁は後に呉氏を滅ぼした。勁の事跡は『忠義伝』にある。

史論

  • 史臣は次のように論じる。琅邪王(元帝)が建鄴に初めて鎮した当初はまだ天下を得る兆しが潜んでいたに過ぎなかったが、王敦は中朝で歴官し威名早くから著れ、淮海に牧たりその声望は隆盛を極めた。魚水のごとき深い信頼と金蘭の契りを結び、王度を輔け中興を光輝あらしめた功は決して小さくない。
  • しかしやがて高い勲功を恃んで非望を図り、勢いに乗じて驕り高ぶった。刁協・劉隗との軋轢から端を発し、銭鳳・沈充との結託で禍難が成った。晋陽の甲を興し、象魏に兵を巡らせ、蜂の目と豺の声を露わにして国命を専断し忠良を殺害、ついには天子の位を簒奪しようと図った。しかし嗣君(明帝)の英略と晋の命運の長さにより、諸侯は位を返上し股肱の臣が力を合わせて廟算を運らし凶徒を滅ぼし、大業を固めて天下を清めるに至った。