晉書卷九十五 列傳第六十五 王嘉

王嘉

  • 王嘉、字は子年、隴西安陽の人。挙動は軽やかで容貌は醜かったが、外見は頼りなさそうでいて内には聡明さを秘めていた。滑稽で笑い話を好み、五穀を食べず、美しい衣を着ず、清らかに気を服し、俗世の人々とは交わらなかった。東陽谷に隠棲し、崖を掘って穴に住み、弟子で学ぶ者は数百人に及び、彼らもみな洞穴に住んだ。
  • 石季龍の末期、その門徒を捨てて長安に至り、終南山に密かに隠れ、庵を結んで住んだ。門人はこれを聞いてまた従い、そこで倒獣山に移った。苻堅がたびたび召しても応じなかったが、公侯以下の者はみな自ら訪ねて拝謁し、道を好む士人で彼を師と仰がない者はなかった。当世の事について尋ねられると、問われるままに答えた。喩え話を好み、その様子は戯れの言葉のようであったが、まだ起こっていないことについて語る際は、言葉が讖記(予言)のようであった。当時それを理解できる者はほとんどいなかったが、事が過ぎると、みな的中していた。
  • 堅が南征しようとした際、使者を遣わして問わせた。嘉は「金剛は火に強い」とだけ言い、使者の馬に乗って衣冠を正し、ゆっくりと東へ数百歩進んだが、突然馬に鞭打って引き返し、衣服を脱ぎ、冠と靴を脱ぎ捨てて帰り、馬から下りて寝台に座り、それ以上何も言わなかった。使者が戻って報告すると、堅は何も言わず、再び使者を遣わして「私の世の運はどうか」と問わせた。嘉は「未央(尽きない、または『未の年に殃あり』の意)」と答えた。人々はみな吉兆と考えたが、翌年の癸未の年、淮南で敗れた。まさに「未年に殃あり」という意味であった。
  • 人が彼のもとを訪ねると、誠心のある者には姿を見せたが、誠心のない者には姿を隠して見せなかった。衣服は架けにあり、履物や杖もそこにあったが、その衣服を取ろうとする者があっても、決して手が届かず、背伸びして取ろうとすると衣架がさらに高くなり、部屋自体もそれほど大きくないのに、杖や他の物を覆う様子も同様であった。
  • 姚萇が長安に入ると、苻堅の時と同じように嘉を礼遇し、常に側に置いて事あるごとに彼に諮った。萇が苻登と対峙していたとき、嘉に「私は苻登を殺して天下を平定できるだろうか」と尋ねた。嘉は「ほぼ得られるでしょう(略得之)」と答えた。萇は怒って「『得られる』なら『得られる』と言えばよい、なぜ『ほぼ』などと言うのか」と言い、彼を斬った。
  • これより前、釈道安が嘉に「世は今、多事である、旅立つべき時だ」と言うと、嘉は「あなたが先に行ってください、私はまだ果たしていない負債があり、まだ去れません」と答えた。まもなく道安は死に、この時になって嘉も殺された。「負債」とはこのことであった。苻登は嘉の死を聞き、壇を設けて哭し、太師を追贈し、諡を文とした。萇が死ぬと、萇の子の興、字は子略が、まさに登を殺した。「略得(子略が得る)」とはこのことを指していた。
  • 嘉の死んだ日、隴の上で彼を見た人がいた。彼が作った『牽三歌讖』は、事が過ぎるとすべて的中し、代々今なお伝えられている。また『拾遺録』十巻を著し、その記事の多くは怪奇なものであるが、今も世に行われている。