晉書卷九十五 列傳第六十五 單道開

單道開

  • 単道開、敦煌の人。常に粗末な麻の衣を着ており、絹の衣を贈られてもすべて着なかった。寒暑を恐れず、昼夜横になることもなかった。常に細かい石の粒を服用し、一度に数粒を呑み、一日一回、多い時も少ない時もあった。山中の暮らしを好み、山の樹々の様々な神が異様な姿で彼を試したが、初めから恐れる様子はなかった。
  • 石季龍の時代、西平から来て、一日で700里を行き、14歳の一人の沙弥もこれに付いていった。秦州に至り、上表して鄴に送られると、季龍は仏図澄に彼と語らせたが、澄でさえ彼を屈服させることはできなかった。
  • 当初、鄴城西の沙門法綝の祠に留まり、後に臨漳の昭徳寺に移った。房の中に高さ八、九尺の重層の楼閣を造り、その上に管を編んで禅室とし、常にその中に座っていた。季龍は大変手厚く供給したが、道開はすべて人に施した。人が訪ねて質問しても、道開は一切答えなかった。
  • 毎日鎮守の薬を数丸服用した。梧桐の実ほどの大きさで、松・蜜・生姜・桂皮・伏苓の気を含んでおり、時折茶蘇(茶と酥)を一、二升飲む程度であった。自ら目の病を治療できると称し、治療を受けた者は多くの効験があった。その挙動を見ると、まるで神がかっているかのようであった。
  • 仏図澄は「この道士は国の興衰を観る者だ、もし去れば大乱が起こるだろう」と言った。季龍の末期、道開は南に許昌へ渡り、まもなく鄴では大乱が起こった。
  • 升平3年(359年)、都に至り、後に南海に至り、羅浮山に入り、独り茅葺きの小屋に住み、俗世を超越していた。百余歳で山中の家で没した。弟子に遺体を石の洞穴に置くよう命じ、弟子はこれを石室に移した。陳郡の袁宏が南海太守であったとき、弟の頴叔と沙門の支法防とともに羅浮山に登り、石室の入り口に至ると、道開の遺体は生きているかのようで、香と火、瓦の器はなお残っていた。宏は「法師の修行は並外れている、まさに蝉が殻を脱いだようなものだ」と言い、彼のために賛を作った。