麻襦
- 麻襦は、どこの出身か分からない人物で、姓名も分からない。石季龍の時代、魏県の市場で物乞いをしており、常に麻の襦(上着)と布の裳(下衣)を身につけていたため、当時の人々は彼を「麻襦」と呼んだ。言葉は並外れて、様子は狂人のようであった。米や穀物を乞い得ても食べず、いつも大路に撒き、「天馬に飴を与えている」と言った。趙興太守はその様子を記録して季龍のもとへ護送した。
- これより先、仏図澄は季龍に「国の東200里の某月某日、一人の非凡な人物が送られてくるでしょう、彼を殺してはいけません」と告げていた。期日通りに果たしてその者が到着した。季龍が彼と語ったが、特に変わったことは言わず、ただ「陛下はいずれ一柱殿の下で最期を迎えるでしょう」とだけ言った。季龍はこれを理解できず、澄のもとへ送った。
- 麻襦は澄に「昔、光和年間に出会ってから、突然今に至った。酉戎(西方の異民族)は玄命を受け、暦(王朝)は絶えていずれ終わりを迎える。金の離散は破滅から生じ、辺境の荒れ地はこれに従うことができない。霊妙な期の跡を駆り立て、その優れた徳が尽きることのないことを。子孫の葉は繁茂し、その到来はいよいよ積み重なっていく。休らかな時期はいつになろうか、永くこれを嘆くのみだ」と語った。澄は「天の巡りは極まり、否運は支えられなくなろうとしている。九木(五行の変異)と水が難をなし、術で安んじることはできない。玄哲(賢者)はなお世に存在するが、その基盤は必ず頽れるだろう。久しく閻浮利(人間世界)に遊んできたが、この患いは絶えることがない。行いて雲の宇に登れば、虚遊の間に相まみえるだろう」と答えた。その語る内容は誰にも理解できなかった。
- 季龍は駅馬で彼を本県に送り返そうとしたが、麻襦は城を出ると徒歩を求め「私はこれから立ち寄るところがある、あなたは合口橋で待っていなさい」と言った。使者が言葉通り馬を走らせて橋に至ると、麻襦は既に先に到着していた。
- 後に慕容俊が季龍の遺体を漳水に投げ込んだ際、橋の柱にもたれかかって流れなかった。当時の人々はこれを「一柱殿の下」と呼んだ言葉が示すのはこのことだと考えた。元帝が江左で即位した際も、これを「天馬」の応験と見なした。