晉書卷九十四 列傳第六十四 張忠

張忠

  • 張忠、字は巨和、中山の人。永嘉の乱の際、泰山に隠棲した。穏やかで欲少なく、清らかに虚心で気を整え、霊芝や鉱石を食し、導引養生の術を修めた。冬は綿入れの衣、夏は縄の帯をつけ、端然として死者のように座っていた。琴や書の楽しみもなく、経典も修めず、教えはただ至道の虚無を宗とした。高い岩や幽谷に居を構え、地を掘って窟室とした。弟子もまた窟に住み、忠から六十余歩離れたところで、五日に一度参上した。彼の教えは形によるもので言葉によるものではなく、弟子は教えを受ける際、その姿を見て退いた。窟の上に道壇を立て、毎朝これを拝んだ。食事には瓦の器を使い、石を掘って釜とした。近隣の人々が衣食を贈っても一切受け取らなかった。
  • 好奇心旺盛な若者が時に旱魃や水害の兆しについて尋ねたが、忠は「天は語らずとも四季は巡り、万物は生まれる。陰陽のことは、山野の老いぼれごときが知りうることではない」と答えた。彼が外物を退けることは、みなこのようであった。
  • 百歳近くになっても視力・聴力に衰えはなかった。苻堅が使者を遣わして彼を召した。使者が到着すると、忠は沐浴して起き上がり、弟子に「私の余命はわずかだ、今の君主の意向に逆らうことはできない」と言った。沐浴を終えると車に乗った。長安に到着すると、堅は冠と衣を賜ろうとしたが、辞退して「年老いて髪も抜け落ち、正装に耐えられません。田舎の服装で拝謁させてください」と言い、これが許された。会見の際、堅は「先生は山林で長く思索を重ね、道と質朴を精しく研究してきました。独りその身を善くする美徳は十分ですが、あわせて世を救う功はまだありません。それゆえ遠路先生を煩わせ、太公望のような役割を任せたいと思います」と言った。忠は「昔、乱世に遭い泰山に難を避け、鳥獣を友として日々の命を保ってきました。堯舜のような御代に出会い、一度は聖顔を拝したいと思いました。しかし年老いて志も衰え、お役に立つことはできません。太公望になぞらえられるなど、とても及びません。山に棲む性分ゆえ心は岩窟にあります。残りの命をもって泰山に帰って死ぬことをお許しください」と答えた。堅は安車で彼を送り出した。
  • 華山まで至ったところで、忠は「私は東岳の道士であるのに、西岳で没するとは、これも運命か、いかんともしがたい」と嘆じた。さらに五十里進んだところ、関を越えたところで没した。使者は早馬でこれを報告し、堅は黄門郎の韋華に持節させ弔問と太牢(最高規格の供物)による祭祀を行わせ、正装の礼服を贈って「安道先生」と諡した。