索襲
- 索襲、字は偉祖、敦煌の人。虚心で落ち着いており学を好み、州郡の召命に応じなかった。孝廉・賢良方正に推挙されたが、いずれも病を理由に辞退した。陰陽の術に思索をめぐらし、天文地理に関する著作十余篇を著し、多くの示唆を与えた。当世の人々と交わらず、独り言を言い独り笑うこともあれば、長く嘆息して涙を流すこともあり、問われても答えないこともあった。
- 張茂の時代、敦煌太守の陰澹が彼を非凡と見て訪ね、一日中滞在して帰るのを忘れ、出てから嘆じて「索先生は大いなる徳を持つ名儒だ、まことに大義を諮るに値する」と言った。澹は郷射の礼(村落での弓術礼儀)を行おうとし、襲に三老(儀礼を主宰する長老)を求めて言った。「今、天下は静まり平安を得ましたので、郷射の礼を行おうと思います。先生は年老いて名望も重く、道においては当代随一です。老人を養う道理はまさに儒者の賢人に関わるものです。私が植えた木は梧桐ではありませんが、それでも鸞や鳳が舞い降りることを願います。私の器量は曹操には及びませんが、それでも蓋公のような方が訪ねてくださることを望みます。まことにこれは分不相応かもしれません。しかし至聖の孔子は召されれば応じ、大徳の孟子は招聘なくしてはどこへも行きませんでした。それは大いなる道を広く明らかにし、教化を敷き広めようとしたからです。今こうしてあなたを煩わせるのは、道に従い教えを尊ぶためであり、爵位のためではありません。あるいはそれで良いのではないでしょうか」。
- 折しも病にかかって没した。時に79歳。澹は喪服を着て葬儀に参列し、贈り物として二万を贈った。澹は言った。「世人が余るほど持っているのは富貴であり、目が好むのは五色、耳が楽しむのは五音である。しかし先生は衆人が集めるものを捨て、衆人が捨てるものを集め、恍惚とした境地の中で無味の味を味わい、あらゆる玄妙の中でも重玄(究極の玄妙)を重んじた。住まいは一畝にも満たないのに志は九州に及び、体は俗塵の中にありながら心は天外に住んでいた。あの黔婁の高遠さも、荘子が望まなかったものも、これに勝るものはない」。そして「玄居先生」と諡した。