晉書卷八十二 列傳第五十二 干寶

国史撰修と搜神記

  • 干寶、字は令升、新蔡の人。祖の干統は呉の奮武將軍・都亭侯。父の干瑩は丹陽丞。干寶は若くして勤学し書物を博覧し、才器により著作郎に召された。杜弢平定に功があり関内侯を賜った。
  • 中興草創期に史官がまだ置かれていなかった際、中書監王導は「帝王の跡は必ず記されるべきであり、令典として著し永く伝えるべきだ。宣皇帝は四海を平定し、武皇帝は魏より禅を受けた、その至德大勲は上聖に等しいが紀伝が王府になく德音も管弦に伝わっていない。陛下は聖明であり中興の盛世にあたる、国史を建て帝紀を撰集し祖宗の功業を敷き佐命の功を記すべきだ。史官を備え佐著作郎の干寶らに撰集させるべきだ」と上疏し、元帝はこれを容れた。干寶はここに国史を主導することとなった。家が貧しく山陰令への補任を求め、始安太守に遷った。王導は司徒右長史に招き、散騎常侍に遷った。『晉紀』を著し、宣帝より湣帝に至る五十三年、全二十巻を奏上した。その書は簡潔でありながら婉曲に事実を伝え、良史と称された。

搜神記の成立

  • 干寶は陰陽術数を好み、京房・夏侯勝らの伝に思いを寄せた。干寶の父にはかつて寵愛する侍婢がいたが母が甚だしく嫉妬しており、父の死後、母は生きたままその婢を墓に押し込めた。干寶兄弟は幼くこれを知らなかった。十余年後、母の喪の際に墓を開くと、婢は棺に伏したまま生きているようで、連れ帰って一日ほどで蘇生した。婢によれば、干寶の父は常に飲食を与え情愛は生前と変わらず、家中の吉凶を告げてくれ、それを確かめるとすべて的中したという。地中にあっても悪をなしたとは感じなかったと語った。のちに嫁ぎ子を産んだ。また干寶の兄はかつて病で気絶し何日も冷たくならなかったが、やがて目覚め、天地の間の鬼神の事を見たと語り、夢から覚めるようで自分が死んだことにも気づかなかったという。
  • 干寶はこれをきっかけに古今の神祇霊異と人物の変化を撰集し『搜神記』全三十巻と名付けた。これを劉惔に見せると、劉惔は「あなたは鬼の董狐(正直な史官)と言えよう」と評した。干寶は広く異聞を集めたため虚実が混じることとなり、序を作りその志を陳べた。
  • その序で干寶は「先賢の記録に照らし、当時の遺聞を集めたが、一耳一目で親しく見聞きしたわけではない以上、失実がないとは言えない。衛の朔(衛宣公の子急子・寿の話)が国を失った件では二つの伝が異なる説を伝え、呂望が周に仕えた事跡でも司馬遷(子長)は両説を残している、この類は往々にしてある。見聞の一致は難しく、これは古来のことである。書に記された赴告の定辞や国史の記録でさえこの通りなのだから、まして千年の昔を語り異俗の外を記し、断片的な言葉を残闕から綴り、古老に事の経緯を尋ねるとなればなおさらだ。事実に二説なく言葉に異同のないようにすることは前史の悩みでもあった。しかし国家が記録の官を廃さず学士が読誦の業を絶やさないのは、失うところが小さく得るところが大きいからだろう。今集めた書に、もし前の記録を継承している部分があれば、それは私の罪ではない。もし近世の事を採訪して誤りがあれば、先賢・前儒とともに謗りを分かち合いたい。その著述はまた神道が誣いでないことを明らかにするに足るだろう」と述べた。
  • さらに「諸家の言はすべて見尽くせず、耳目で受けたものもすべて載せきれない。今おおよそ八略の趣旨を演じるに足るものを取り、その大要をなすのみである。将来の好事家がその根本を記録に留め、心を遊ばせ目を寄せるのに咎めがないことを願う」と結んだ。
  • 干寶はまた『春秋左氏義外傳』を著し、『周易』『周官』に注した数十篇があり、雑文集もともに世に行われた。