晉書卷八十二 列傳第五十二 虞預

虞預(字は叔甯、?–逝去年不詳)。征士虞喜の弟。若くして学を好み、地方官として時政を諫める上疏をたびたび行い、のち私的に『晉書』を撰したが、王隱の著書を盗み見たとされ非難も受けた。

年表(7件)
  • 若年宗人の推挙で県功曹に推されそうになるが、党争を恐れて従叔父に懸念を訴え、果たして半年で排斥される
  • 太守庾琛の下時政の失点(頻繁な長吏交代による負担、督郵の乱立)を上疏し、庾琛はこれをすべて実施する
  • 太興二年319年大旱に際し直諫を求められ、人材登用の必要を説く上疏を行う
  • のち著作郎として私的に『晉書』を撰し、王隱の著書を借りて見聞を広めるが、のち王隱を妬み排斥したとされる
  • 王含討伐功により西鄉侯を賜る
  • 蘇峻の乱平定後平康縣侯に進み散騎侍郎・著作を兼ね、のち散騎常侍となる
  • 晩年老齢を理由に帰郷し家で没する

若年期の戒め

  • 虞預、字は叔甯、征士虞喜の弟。もとの名は茂だが明穆皇后の母の諱に触れるため改めた。虞預は十二歳で孤児となり若くして学を好み文章に長けた。余姚の風俗では各々朋党があり、宗人が共に虞預を県功曹に推挙し穢濁を一掃させようとした。虞預は従叔父に書を送り「近ごろ諸君が私が官寺に入れば当然身を投じ職務に忠実であるべきと言っていると聞いた。しかし私は下愚であり、なお懸念がある。邪党が互いに窺い異論が四方から起こるだろう、一旦誤りがあれば非難が集中する。毫釐の差が千里の隔たりを生む、これは古人の戒めであり私が最も恐れることだ」と書いた。果たしてその言葉通り半年も経たぬうちに排斥された。

上疏による諫言

  • 太守庾琛は虞預を主簿に任じた。虞預は時政の失点を記して「軍寇以来賦役が繁多になり凶作も重なり百姓は生業を失った、今こそ徭役を軽くし刑を寛くする時である。近ごろ長吏は頻繁に交代し送迎の交錯が絶えない。迎える者は船馬の不足を恐れ、送る者は吏卒の少なさを恨む。奢侈を尽くすことを忠義と呼び、簡素にすることを薄俗と呼び、悪習が広まり止まらない。加えて道が定まらず滞留が続き、送る者は年を越し田植えの時期を失う。一人が耕さなければ十人が食に困る、まして百人単位となれば損失は計り知れない。属県に令し、令や尉が離任する際は人船吏侍の員数を条列させ、法に基づいて減省し公私を適正にすべきだ。また現在は職務が多岐にわたり、緊急のたびに督郵を立てるため直属だけで三十余人にのぼり、人船吏侍もすべて官から出さねばならず、命に堪えられなくなる、減省して厳しく防ぐべきだ」と述べた。庾琛はこれを善しとしすべて実施した。太守紀瞻が着任すると虞預は再び主簿となり、功曹史に転じた。孝廉に挙げられたが赴任しなかった。安東從事中郎諸葛恢・參軍庾亮らが虞預を推薦し、丞相行參軍兼記室に召された。母の喪に遭い、服喪を終えて佐著作郎に任じられた。
  • 太興二年(319年)、大旱に見舞われ、詔により直諫の士を求められると、虞預は上疏して諫めた。「大晉が天命を受けて五十余年、元康以来王德が欠け始め、戎狄が中国に及び、宗廟は灰燼となり、千里に人煙なく、華夏に冠帯の人なし。天地開闢以来、書物に記された大乱の中でこれほどのものはなかった」と述べ、「陛下は聖德により先んじて覚り、東南に鎮を置かれた。声教は遠く及び中興と言われるがその実は受命に等しく、少康・宣王ですら及ばぬほどである。しかし『南風』の歌のような太平の兆しはまだ乏しい。国を治める要は人材を得ることにあり、人材を得る術は引き上げることにある。もし用いるに足るなら卑賤な者でも必ず用いるべきだ。高宗(殷の武丁)・文王は佐を求めて夢を見、身分低き者を岩から引き上げて相とし、老いた者を釣り場から師とした。下って列国にも同様の例があり、燕は郭隗を重んじて三士が競って至り、魏は段干木を礼して秦兵は退いた。今天下は疲弊し人材は乏しいが、十室の邑にも必ず忠信の者はいる、世に驥(駿馬)が絶えることはなく、求めれば得られる。それなのに賢者への礼を尽くさず招聘の車を用いていない、これが大化の行き渡らぬ理由である」と述べた。

軍事の重要性を説く

  • 虞預は賊がまだ平定されていないことから良将の必要を説き、再び上疏した。「太平の世には教化が先、乱を鎮める運には武でなければ克てない。牧野の戦いでは呂望が鉞を執り、淮夷の乱には召伯が専征し、玁狁の暴には衛霍が長駆した。故に陰陽が調わなければ士を抜擢して相とし、三軍が勝てなければ卒を抜擢して将とする。漢帝は天下を定めてなお猛士を求めて四方を守らせた、孝文帝は钜鹿に心を寄せ馮唐の進言により魏尚を復職させた。『詩』に『赳赳たる武夫は公侯の幹城』とある、折衝の臣を軽んじてはならない。今中州は荒廃し、牧守官長には戎貊の族類か寇竊から逃れた者しかいない。陛下が即位し威が四方に及んだことでこれらの者は善に向かい始めたが、狼子の獣心は軽薄で動きやすく、羯虜がまだ滅びぬ中ではなおさら安定は難しい。周撫・陳川は相次いで背叛し、徐龕は驕慢で兵を放って侵略し、その罪はすでに明らかである」と述べた。
  • また「昔葛伯が道に背いたとき湯王は牛を献じ、呉濞(呉王劉濞)が礼を失したときは几杖を賜った。悪が成り罪が著しくなって初めて誅罰を加えるものだ。徐龕のような小悪は滅ぼすに足らない。しかし不慮の事態に備えるのは古の善き教えであり、有虞氏でさえ防いだのだからなおさら備えるべきだ。防ぐ術は良将を得ることにある。将は平素から選んでおかねば敵に応じ難い。壽春には鎮がなく祖逖は孤立し、前に強敵があり後ろに援けもない、智力があってもこれでは長続きしない。陛下は群公に諮り広く人材を挙げるべきだ。当局の才があれば必ずその任を全うさせ、奨励して命を顧みぬようにすべきだ。傍らに余っている人材があれば厚遇し身命を捨てて忠を尽くさせよ。昔英布は軽んじられて自害しようとしたが、豪奢な待遇を目にして初めて力を尽くすようになった、礼遇の恩を厚くしないでいられようか」と述べた。
  • さらに「山河の量が塵露では増やせぬこと、神鑒の慮が愚浅では測れぬことは重々承知している。しかし匹夫や寡婦ですら憂国の言を持つもの、まして朝堂の末に連なり冠帯の栄を蒙る臣であればなおさらである」と締めくくった。
  • 琅邪國常侍に転じ、秘書丞・著作郎に遷った。

咸和年間の議論と最期

  • 咸和初、夏の旱害に際し、詔により百官がそれぞれ雨を招く意見を述べるよう求められた。虞預は「天道は信を貴び地道は誠を貴ぶ。誠信とは天地が万物を生み育て、人君が万民を安んずる所以である。殺伐は雷電になぞらえ、恩恵は雲雨に象る。刑罰は必ず信によるべきで、慶賞は公平を貴ぶ。近頃刑獄がますます繁雑になり、力ある者は広く連座させて年月を稽留させ、援けのない者には厳しく杖罰し重罪に処すことばかりが行われている。百姓は嘆き和気を損なっている。軽い罪や耐罪は速やかに裁決し、殊死の重罪は慎重に処すべきだ。徭役を寛くし節倹に努め、朝臣を戒めそれぞれに禁を守らせるべきだ」と議した。
  • また「老いた牛を犠牲にしないのは礼の常法である。しかし近頃は官に拝授されるたびに祖送を誇り合い、牛犢を十数頭も屠り、酒に溺れ限度を失っている、財を損ない俗を敗る害は少なくない」と述べ、「昔殷の高宗は徳を修めて桑穀の異を消し、宋の景公は善言により熒惑の変を退け、楚国は災いなく荘王がこれを畏れた。盛徳の君主にも過ちがないわけではないが、誠信を尽くせば天の助けは必ず盛んになる。臣の見識は浅く言葉も採るに足らない」と結んだ。
  • 王含討伐に従い西鄉侯を賜った。蘇峻の乱では虞預はあらかじめ帰省しており、太守王舒が諮議參軍に招いた。乱平定後、平康縣侯に進み散騎侍郎に遷り著作はそのまま兼ねた。散騎常侍に除せられ引き続き著作を領した。老齢を理由に帰郷し家で没した。
  • 虞預は経史を好み玄虚を憎み、阮籍の裸体を評して伊川の被髮になぞらえ、そのために夷狄が中国に遍く及んだとし衰えた周の時代を上回るとした。『晉書』四十余巻、『會稽典錄』二十篇、『諸虞傳』十二篇を著し、いずれも世に行われた。その他の詩賦碑誄論難数十篇も著した。