奇行と著作
- 王長文、字は德睿、廣漢郪の人。若くして才学で知られたが、放埒で束縛されず、州府の辟召に一切応じなかった。州が別駕に招いた際は微服で密かに出奔し、州中の誰もその行方を知らなかった。のち成都の市中で蹲踞して胡餅を齧っているところを見つかった。刺史はその不屈を知り丁重に帰した。門を閉ざして人事に交わらず、『通玄經』全四巻を著し『易』に擬え、「文言」「卦象」を備えて占卜に用いることができ、当時の人は揚雄の『太玄』になぞらえた。同郡の馬秀は「揚雄が『太玄』を作った時、桓譚だけがこれが必ず後世に伝わると評した。のち陸績に出会い玄道は明らかになった。長文の『通玄經』はまだ陸績や桓譚(君山)に出会っていないだけだ」と述べた。
- 太康年間、蜀の地が飢饉に見舞われ官倉を開いて振貸した際、貧しかった王長文は多く借りたが後に返済できなくなった。郡県が厳しく督責し王長文を州に送ったが、刺史徐幹はこれを許し、王長文は謝辞もなく去った。のち成都王司馬穎が江源令に招いた。ある者が「以前は志を曲げなかったのになぜ今は屈するのか」と問うと、王長文は「禄は親を養うためであり、自身のためではない」と答えた。梁王司馬肜が丞相となると從事中郎に招いた。洛陽で外出する際は必ず白い旃の小さな覆いを車に載せ、当時の人はこれを異とした。のち洛陽で没した。