晉書卷八十二 列傳第五十二 虞溥

五等の制を説く

  • 虞溥、字は允源、高平昌邑の人。父の虞秘は偏將軍として隴西に鎮した。虞溥は父に従って任地に赴いても専ら書物に心を向けた。当時軍事演習が行われ人々が争って見物する中、虞溥は一顧だにしなかった。郡の孝廉に挙げられ郎中を経て尚書都令史に補せられた。尚書令衛瓘・尚書褚䂮はいずれもこれを重んじた。虞溥は衛瓘に「金馬の啓符(瑞祥)は大晉が天に応じたことを示す、先王の五等の制を復して長久を安んずべきで、暴秦の法を承け漢魏の失を継ぐべきではない」と語ったが、衛瓘は「歴代がこれを嘆じてきたが、ついに改められなかった」と答えた。

鄱陽で学を興す

  • 公車司馬令に遷り、鄱陽内史に任じられた。学校を大いに整備し学徒を広く募り、属県に「学は情理を定め衆善を積むためのものであり、内に情を定めれば行いは外に成り、心に善を積めば教えに顕れる。故に中人の性は教えに従って移り、善を積めば習いが性となる。唐虞の時代には家ごとに封じるに値したが、その道が廃れた頃には誅すべしと言われた。これは化により俗を成し教えが人心を動かした証ではないか。漢氏が統御を失って以来天下は分崩し、江表は隔絶され王教は久しく廃れ、庠序の訓えも修められなくなった。今や四海は統一され万里が軌を同じくしている、道徳を尊び学業を広く開き、太平の世を助け盛んな教化を光り輝かせるべきだ」と告げ、詳細な条制を定めた。集まった者は七百余人に及んだ。虞溥は誥を作り彼らを励ました。
  • その誥では「学ぶ諸生はみな冠帯の身、志を立てて学庭に入り典訓を学ぶことは大成の業、立徳の基である。聖人の道は淡くして味気なく、学び始めの者は好まぬものだが、月を重ねるにつれ見識は広がり、日々知らぬことを知り見ぬことを見て、心開き意朗らかとなり、業を敬い群れを楽しみ、いつしか大化に己が染まり至道が神に入っていることに気づかぬほどになる。学問が人を染める力は丹青(絵の具)にまさる。丹青は久しく色褪せるが、久しく学んで変わる者を見たことがない」と述べた。
  • また「染物師は先に質を整え、後に色を施す。学問にも質があり、それは孝悌忠信である。君子は内に心を正し外に行いを修め、余力があれば文を学ぶ。文と質が調和して初めて徳となる。学ぶ者は才の不足を憂うのではなく志の立たぬことを憂うべきだ。驥(駿馬)を希う馬もまた驥の仲間であり、顔淵を希う徒もまた顔淵の仲間である。また『契りて舎てば朽木も裂けぬが、契りて舎てなければ金石も虧ける』と言う、まさにその通りである」と説いた。
  • さらに「諸生が聖人の典を口誦し庠序の訓えを体得すれば、三年のうちに小成を得られる。令名は広まり朋友は喜び朝士は感嘆し、州府が官を選んで仕えさせることとなろう。文才ある者は楊斑や董仲舒にも比肩しうる、ただ才の所在によるのみで常人には限らない。しかし一勺を積んで江河を成し、微塵を積んで峻極を成すように、勤めなければ成就はない。人間の務めを絶ち学に専心すれば、遅速の差はあれいずれ通じ至るであろう」と諭した。
  • 祭酒が新たに屋を起こして礼を行おうとした際、虞溥は「君子の礼には決まった場所はない。孔子は矍相の圃で射礼を行い、大樹の下で礼を行った。まして今の学庭・庠序は高堂で明るい場所ではないか」と言った。
  • 虞溥は政を厳しく行いながらも猛からず、風化が大いに行われ、郡庭に白烏が集まる瑞祥もあった。『春秋』の経・伝に注し、『江表傳』および文章詩賦数十篇を撰した。洛陽で没した、時に年六十二。子の虞勃は江を渡って『江表傳』を元帝に献上し、秘書に蔵された。