経歴
- 顧衆、字は長始、呉郡呉の人、驃騎将軍顧栄の族弟。父顧秘は交州刺史で文武の才があった。衆は伯父の後を継ぎ、伯父が早世したため伯母に孝を尽くして仕えた。光禄硃誕にその器量を認められた。州の主簿に召され秀才に挙げられ余杭・秣陵の令に任じられたがいずれも赴任しなかった。
- 元帝(鎮東将軍時)の命で参軍となり、華軼討伐の功で東郷侯に封じられ丞相掾に召された。父秘の死後、州人が衆の兄壽を刺史に立てたが州人に殺害され、衆は交州へ喪を迎えに行ったが杜弢の乱に遭い6年もの苦難の末帰還した。父秘がかつて呉興を治めたとき、呉興の故旧が衆の苦難を思い銭200万を贈ったが、衆は一切受け取らなかった。
王敦への対応
- 元帝即位後、駙馬都尉・奉朝請に召され尚書郎に転任。大将軍王敦が従事中郎に招き南康太守に補された。詔により鄱陽太守・広武将軍を兼ねることになった。衆は鄱陽へ直行し敦に立ち寄らなかったため敦は怪しんだ。
- 敦が反逆を企て衆に出兵を命じたが衆は遅々として動かず、敦は激怒し軍期を理由に召還し激しく詰問したが、衆は動じず敦の怒りも次第に解けた。同時期敦が宣城内史陸喈を怒っていた際も衆はその弁明をした。敦の長史陸玩がその場に居合わせ衆を心配し「卿はまさに剛にして吐かず柔にして茹(の)まざる者、仲山甫といえどもこれに勝るまい」と評した。
- 敦の事が成った後、衆を呉興内史にしようとしたが衆は固辞し、吏部郎桓彝を推挙、彝も衆に譲り両方とも実現しなかった。敦が姑孰に鎮すると再び従事中郎とした。敦平定後、太子中庶子に除せられ、義興太守・揚威将軍を兼ねた。
蘇峻の乱鎮圧
- 蘇峻の反乱で王師が敗れると、衆は呉に戻り密かに義挙を図った。呉国内史庾冰が会稽へ逃れ、蘇峻は蔡謨をその後任とした。前陵江将軍張悊が蘇峻のため呉で徴兵していたが、衆が人を遣って諭すと悊は従った。
- 衆は郎中徐機を遣り蔡謨に「私はすでに一族の兵をひそかに集め、時を待って奮起する、張悊とも時を約して節義を尽くす」と告げると、謨は衆を本国督護・揚威将軍(留任)に任じ、衆の従弟で護軍将軍顧颺を威遠将軍・前鋒督護とした。呉中の人士がこぞって呼応した。
- 蘇峻の将弘徽が甲卒500を率いて進軍すると、衆は顧颺・張悊とともに高莋で迎撃し大破、軍需を奪取した。蔡謨は庾冰の任地復帰に伴い郡を去った。衆は顧颺に諸軍を率いさせ無錫に駐屯させた。
- 庾冰が至り禦亭に鎮し、賊が海虞道から侵入することを恐れ衆自ら備えに向かったが、賊将張健・馬流が無錫を攻め顧颺らは大敗、庾冰も守りを失い、賊は呉城を占拠した。
- 衆は海虞から婁県東倉を経て賊の別動隊と交戦しこれを破り、義軍を再結集して烏苞に進駐した。会稽内史王舒・呉興内史虞潭は衆を五郡大督護に檄し、諸義軍を統率して張健を討たせた。虞潭は将姚休を先鋒としたが戦没、衆は紫壁を守り続けた。
- 賊勢が鋭く義軍が退く中、浙江を越えて避難するよう勧める者もいたが、衆は「紫壁を固守すれば銭唐以南の五県を全うできる、他境に越えれば根拠を失い制御が利かなくなる、それは得策でない」と述べた。臨平の范明もこの地の険要さを説き、衆は范明を参軍に版任した。
- 范明は宗党500人を率い諸軍と合わせ4000人となり、再び張健討伐に進んだ。健は曲阿に退き銭弘を呉令として残したが、義軍が路丘に進み銭弘を斬った。衆は呉城に進駐し督護硃祈ら九軍を遣り蘭陵太守李閎とともに庱亭を守らせた。健が馬流・陶陽らを遣って攻めさせたが、李閎・硃祈らが迎撃し大破、二千余級を斬った。
晩年
- 蘇峻平定後の論功で、衆は檄に応じて義に備えた功を蔡謨に譲り、謨も衆が謀を唱えたのは自分の功ではないとして互いに功を譲り合い、論者はこれを美談とした。鄱陽県伯に封じられ平南軍司に任じられたが赴かなかった。丹陽尹・本国大中正に転じ、侍中に召され尚書に転任。
- 咸康末、領軍将軍・揚州大中正に遷ったが固辞して拝さず、母の喪により去職。
- 穆帝即位後、何充の執政下で領軍に召還されたが起たず、服喪明けに就任した。当時何充と武陵王が不和であったが、衆がその間を取り持ち和解させた。何充は仏教を篤く信じ費用を浪費したため、衆はしばしば諫言した。何充と同乗した際に寺の前を通り何充が入るよう誘ったが、衆は車を下りなかった。何充は衆が州の宿望であることからこれを優遇した。
- 老齢により骸骨を乞う上疏をしたが許されず、尚書僕射に遷った。永和2年(346年)卒去、享年73。特進・光禄大夫を追贈され、諡は靖。長子昌が継ぎ建康令となった。三子会は中軍諮議参軍で当時美士と称された。