晉書卷七十六 列傳第四十六 張闓

経歴

  • 張闓、字は敬緒、丹陽の人、呉の輔呉将軍張昭の曾孫。幼くして孤児となり志操があった。太常薛兼が元帝に推挙し「闓は才幹が貞固で当代の良器である」と述べ、安東参軍に引き立てられ厚遇された。丞相従事中郎に転じたが母の喪で去職。
  • 葬儀後、帝が強く出仕を命じたが闓は病篤しとして固辞、優命が重ねて促され、ついに出仕した。元帝が晋王になると給事黄門侍郎を拝命し本郡大中正を兼ね、輔翼の功により丹陽県侯に叙され侍中に遷った。

晋陵内史としての治績

  • 帝即位後、晋陵内史として出任、郡で大いに威徳を示した。帝は詔で「二千石の任は徳を勉め治めるところを整え、寛にして縦にあらず、厳にして苛にあらず、勤功督察し国を便じ民を利し強を抑え弱を扶け濫れなきようにするのが太守の任である。もし評判が実を超えるなら、古人はこれを取らない」と述べ、闓はこれに従い政を行った。
  • 管轄する4県が旱害で田を失ったため、闓は曲阿に新豊塘を築き800余頃を灌漑、毎年豊作となった。葛洪がこれを頌した。ただし工数21万1420功を要したことが擅興造とされ免官となった。
  • のち公卿らが「張闓が陂を興し田を灌漑したのは国益であるのに罷免されては、臣下は善行をなしにくくなる」と述べたため、帝は感悟し「丹陽侯闓はかつて民を労役させたことで免官されたが、その忠節の志は掩われるべきではない、倉廩は国の大本でありその才を得るべき、闓を大司農とせよ」と詔した。闓は罷免されたばかりで九列に居るのは相応しくないと辞退したが許されず、後に就任した。

蘇峻の乱と最期

  • 帝崩御の際、闓は大匠卿として建平陵の造営にあたり、事後尚書に遷った。蘇峻の乱で闓は王導とともに宮中に入り侍衛、蘇峻は闓に節を持たせ東軍を仮に統括させた。王導はひそかに闓と謀り、太后の詔を三呉に密かに宣べ速やかに義軍を挙げさせた。
  • 陶侃らが至ると闓に節を仮し征虜将軍代行とし、振威将軍陶回とともに丹陽の義軍を督させた。闓は晋陵に至り、内史劉耽に一部の穀をすべて出させ、呉郡には度支をして四部の穀を運ばせ、車騎将軍郗鑒に給した。また呉郡内史蔡謨・前呉興内史虞潭・会稽内史王舒らとともに義兵を招集して蘇峻を討った。
  • 蘇峻平定後、尚書に散騎常侍を加官し宜陽伯に叙された。廷尉に遷ったが病で解職し金紫光禄大夫を拝命。まもなく卒去、享年64。子混が継いだ。闓の箋表文議は世に伝わった。

史論

  • 史臣曰く、季孫行父は「君に礼を尽くす者は孝子が父母を養うがごとく、君に礼を尽くさぬ者は鷹や鸇が鳥雀を追うがごとし」と述べた。石碏が(子)厚を戮し、叔向が(叔魚)鮒を誅したことは、前史に美談とされる。王敦の悪はその類に比するに足りない。
  • しかし硃家が(季)布を匿ったことは大俠の首とされ、酈寄が呂禄を欺いたことは売友の譏りを受けた。これらもまた風俗を激励し名教を弘めるためのものである。
  • 王彬は舟を寄せて薄遇すべき者(王敦)を厚く遇し、王舒は江に沈めて厚遇すべき者(王含父子)を薄く遇した、その優劣を比べれば明らかである。虞思行(𩦎)・王彪之は乱世に風規を励まし、虞潭・顧衆は危急の際に貞心を貫いた。龍管(音楽)は出納の端であり、塩漬け魚は献替の術ではない、虞嘯父の対応はなんと卑俗なことか。
  • 贊に曰く、王舒(處明)は若くして令名があったが晩年に評判を落とした。允之は良い資質を持ち功業を無駄にしなかった。王廙は多芸と称されたが後の哲主に取り入り、その節操のなさは甚だ醜い。王彬(世儒)は憤発し周顗のために敦を責め立てた。王彪之は不撓の志で殷浩を安んじ桓温を退けた。顧衆はまさに南方の良才(南金)のごとく、虞潭は東方の良材(東箭)のごとし、その資質は変わらず節操も揺るがなかった。公の望みと公の才を兼ね備えたのは、虞𩦎がその選にふさわしい。