出自と初期の官歴
- 虞潭、字は思奥、会稽余姚の人、呉の騎都尉虞翻の孫。父忠は宜都太守に至ったが、呉滅亡の際、城を堅守して降らず殉節した。
- 潭は清廉で節操があり、州の従事・主簿に召され秀才に挙げられ、大司馬・斉王冏の祭酒、祁郷令、醴陵令を歴任。張昌の乱で郡県の多くが従う中、潭は独り兵を挙げ張昌の別将鄧穆らを斬った。
- 襄陽太守華恢の上表で建平太守を兼ねたが病により固辞。以降各地の征討に従事し軍功により都亭侯に叙された。陳敏の反乱では東下しその弟贊を江州で討った。広州刺史王矩の上表で廬陵太守を兼ね、荒廃地の民を慰撫し安んじた。諸軍とともに陳恢を平定し南康太守に転じ東郷侯に進んだ。
- 元帝の檄により江州刺史華軼討伐に赴いたが到着時にはすでに平定されており、湘川の賊杜弢の勢力が盛んだったため、江州刺史衛展の上表で安成太守を兼ねた。甘卓が宜陽で杜弢に迫られると潭は救援に赴き、甘卓の上表で長沙太守を兼ねようとしたが固辞。王敦の版任で湘東太守となったが再び病を理由に辞退。杜弢平定後、元帝の召しで丞相軍諮祭酒となり琅邪国中尉に転じた。
王敦の乱と沈充討伐
- 元帝が晋王になると屯騎校尉に任じられ右衛将軍に徙り宗正卿に遷ったが病により帰郷。王含・沈充らが京都に迫ると、潭は郷里で一族・郡の大姓を招集し義軍を挙げ、その数万を数え、自ら明威将軍を称した。
- 国難に馳せ参じ上虞に至ると、明帝の手詔で冠軍将軍・領会稽内史に任じられ受命、義軍が雲集した。野鷹が屋梁に飛来し衆が恐れたが、潭は「大義を起こすとき猛禽が来集するのは賊を破る兆しだ」と述べた。
- 長史孔坦に前鋒を率いさせ浙江を渡り沈充を追撃させ、潭自身は西陵に駐屯して坦の後継となった。沈充が捕らえられ兵が解かれると、尚書に召還され右衛将軍・散騎常侍を兼ねた。
蘇峻の乱と晩年
- 成帝即位後、呉興太守(秩中二千石)・輔国将軍として出任。沈充討伐の功により零県侯に進んだ。蘇峻反乱時、督三呉・晋陵・宣城・義興五郡軍事を加えられたが、王師が敗れ大駕が遷ると勢力が弱く固守して四方の挙兵を待った。
- 陶侃らが下ると潭は郗鑒・王舒と協同して義挙し、陶侃らは潭に節を仮し監揚州浙江西軍事とした。潭は諸軍と勢力を合わせ東西で呼応したが、督護沈伊が管商に呉県で敗れたため潭は自ら節を降格した。
- 蘇峻平定後、母が老齢のため官を辞し余姚に帰郷。鎮軍将軍・呉国内史に転任、さらに会稽内史に徙るも赴任前に呉郡に戻った。前後の功により武昌県侯(食邑1600戸)に進んだ。当時の兵乱後、百姓が飢饉で死者が地を覆う惨状だったため、潭は倉米の放出による救済を上奏。滬瀆塁を修築して海賊の侵入を防ぎ、多くの人々がこれに頼った。
- 咸康中、衛将軍に進んだ。潭は外見は温和で弱そうだが内心は堅固で明敏、決断力があり、たびたび軍を統率しながらも敗北が少なかった。母の喪により去職、服喪明けに侍中・衛将軍として召還され、光禄大夫・開府儀同三司を拝命、親兵300人を給された。享年79で在官のまま卒去。左光禄大夫を追贈され開府・侍中はそのまま、諡は孝烈。
- 子仡が継ぎ右将軍司馬に至った。仡の死後、子嘯父が継いだ。
孫嘯父――孝武帝への機知と失脚
- 虞嘯父は若くして顕職を歴任し侍中に至り、孝武帝に親愛された。ある宴席で帝が「卿は門下にいながら諫言を聞いたことがない」と問うと、嘯父は自邸が海に近いことから帝が求めているものと誤解し「時節はまだ暖かく魚介の塩漬けはまだ届けられませんが、まもなく献上いたします」と答え、帝は大笑いした。
- 酔って拝礼できずにいた嘯父に帝が「虞侍中を支えよ」と命じると、嘯父は「臣の位は支えられる身分ではなく、酔いも乱れるほどではありません、分不相応な賜りは受けられません」と述べ、帝は大いに悦んだ。
- 隆安初、呉国内史となり尚書に召還されたが赴任前に王廞が挙兵、嘯父は版任で呉興太守代行を命じられた。嘯父は呉興に入り王廞に呼応した。廞が敗れると有司は嘯父の同謀を奏上し斬罪に相当したが、詔により祖父虞潭の旧勲を理由に、疾病による贖罪として庶人に落とすにとどめられた。
- 隆安4年、再び尚書を拝命。桓玄の専権時には太尉左司馬となり、まもなく護軍将軍に遷り会稽内史に出任。義熙初、去職し家で卒去。
兄子𩦎――評価と最期
- 虞𩦎、字は思行、虞潭の兄の子。機略・才幹は潭に及ばないが、行いの正しさはそれ以上であった。譙国の桓彝とともに吏部郎となり親交が深かった。桓彝が息子桓温を遣わして𩦎を拝させると、𩦎は子の穀に彝を拝させた。呉興太守・金紫光禄大夫を歴任。
- 王導はかつて𩦎に「孔愉は公の才があるが公の望みがなく、丁潭は公の望みがあるが公の才がない、両者を兼ねるのは卿だろう」と評した。官位が十分に達しないまま没し、当時の人々に惜しまれた。子谷は呉国内史に至った。