晉書卷七十五 列傳第四十五 范汪

若年期の苦学

  • 范汪は字を玄平といい、雍州刺史范晷の孫にあたる。父の范稚は早世した。范汪は幼くして孤児となり貧しく、6歳で江を渡り外戚の新野庾氏に身を寄せた。荊州刺史王澄はその才を見出し「范氏を興すのはこの子だろう」と評した。13歳で母を失い喪に礼を尽くし、親族もこれを哀れんだ。成長すると学を好んだが外家も貧しく資金がなかったため、園中に廬を結び粗衣粗食のまま薪を焚いて書を写し、写し終えると誦読し尽くして博学多通となり、名理の談論に長けた。
  • 弱冠で京師に至った頃、蘇峻の乱が起きた。王師が敗れ范汪は西へ逃れた。庾亮・温嶠が尋陽に駐屯していた際、往来が絶え峻の実情が分からず皆賊の強さを恐れて軽々に進めなかったが、范汪が到着すると嶠らはこれに意見を求め、范汪は「賊の政令は統一されておらず貪暴で節度がない、既に滅亡の兆しがある、強く見えても実は弱い、朝廷は危急の事態にある、速やかに討伐すべきだ」と答えた。嶠は深くこれを納得した。同日、護軍・平南二府から招聘が相次ぎ、初めて仕官して護軍事に参画した。賊平定後、都郷侯を賜り、庾亮の平西参軍として郭黙討伐に従い亭侯に爵を進めた。司空郗鑒の掾に招かれ宛陵令に除せられ、再び庾亮の征西軍事に参画し州別駕に転じた。庾亮の佐吏として十余年仕え深く信任された。鷹揚将軍・安遠護軍・武陵内史に転じ、中書侍郎に召された。

庾翼への諫言

  • 庾翼が郢漢の全軍を挙げて中原経略に赴き安陸に進駐し、まもなく襄陽へ移駐しようとした際、范汪は上疏して四つの懸念を述べた。第一に、急な攻討では準備が整わず安陸の物資が襄陽で使えないこと、冬の沔漢が乾いており各所を経巡らねばならず、緊急事態に相互救援ができないこと。第二に、桓宣が開拓した地を再び移動させることの混乱。第三に、襄陽への数万口の増員による運搬・輸送の負担が江南に集中すること。第四に、東軍が進まず孤立していること、そして兵書の「彼を知り己を知る」戒めを引き、敵は衰えつつも侮れず自軍も未だ十分でない中で連兵を続ければ患難を招くと論じた。
  • 庾翼はこれらの懸念を承知しつつも門戸の重責から已むを得ず出兵したこと、国家の安全のためには万全を期すべきであり、もし意見が一致するなら車騎将軍庾冰らと共に議すべきと范汪は結んだ。

桓温との確執

  • まもなく驃騎将軍何充が輔政すると長史に招かれた。桓温が庾翼に代わり荊州となると范汪は再び安西長史に任じられた。桓温の蜀征伐に際し留府を委ねられ、蜀平定後に武興県侯に爵を進めた。桓温はしばしば長史・江州刺史として招いたがいずれも応じず、自ら京師に戻ることを願い出て東陽太守を求めた。桓温はこれを深く恨んだ。東陽郡では学校を大いに興し善政を行った。まもなく召還され中領軍・本州大中正を歴任した。簡文帝が輔政すると深く親しまれ、都督徐兗青冀四州揚州之晋陵諸軍事・安北将軍・徐兗二州刺史・仮節に除せられた。
  • 桓温の北伐に際し范汪に文武を率いて梁国へ出させたが期日に遅れたため庶人に落とされた。朝廷は桓温を憚り処分を強行できず、論者はこれを嘆いた。范汪は呉郡に隠棲し従容と講義に励み、正邪を論じなかった。後に姑孰に至り桓温に会った。桓温はちょうど不遇な人材を取り立てて朝廷への影響力を強めようとしており、范汪が自らを頼って来たと思い込み手厚く迎え「范公が来た、太常にできようか」と袁宏に語った。しかし范汪の来訪の真意は、機に乗じたと見なされることを恐れて「亡くなった子をここに葬ったので墓参りに来ただけだ」というものであり、桓温は大いに失望した。享年65で家にて卒去、散騎常侍を追贈され諡は穆。長子の范康が嗣いだが早世した。康の弟の范甯が最も名を知られた。

范甯――王弼・何晏批判

  • 范甯は字を武子といい、若くして篤学で博識であった。簡文帝が丞相であった頃、招聘しようとしたが桓温に阻まれ実現しなかった。このため桓温の在世中、范氏兄弟は要職に列することがなかった。浮虚の風が儒学の衰退を招いていることを憂い、その源は王弼・何晏にあると考え、二人の罪は桀紂よりも深いとする論を著した。
  • ある問いに答える形で、聖人の道は帝王の号や文質の制度が異なっても天下を治める点で古今変わらないとし、王弼・何晏が典籍を軽んじ礼度に従わず、遊説浮言で虚飾を重んじ実を覆い隠したため、士大夫が流れに任せ儒学の風が地に落ちたと批判した。「言は偽りながら弁が立ち、行いは邪でも意志が固い者」という古の戒めに当たるとし、孔子が少正卯を魯で誅し、太公望が華士を斉で誅した故事を引き、桀紂の暴虐は自らの身を滅ぼしたに過ぎないが、王弼・何晏は世の名声を利用して俗を惑わせた点でより罪深いと論じた。

范甯――地方官としての政治

  • 桓温の薨去後、初めて余杭令として仕官し、県で学校を興し生徒を養い、自ら身を清め礼を修めたため、志ある者は皆これに従い一年で風化が大いに広まった。中興以来、儒学を尊び教化に励む点で范甯に及ぶ者はいなかったと評された。6年の在職後、臨淮太守に遷り陽遂郷侯に封ぜられた。まもなく召されて中書侍郎を拝した。多くの献策を政道に益するものとし、新廟の造営に際しては辟雍・明堂の制度を経典に基づき詳細に上奏し典拠を備えた。孝武帝は文学を好み范甯を深く重んじ、朝廷の疑義があれば常に諮問した。范甯は朝士の是非を直言し憚らなかった。

范甯――土断論と豫章太守での失脚

  • 甥の王国寶は諂媚により会稽王司馬道子に仕え、范甯に容れられないことを恐れて讒言し疎まれるようになった。国寶は豫章太守への出向を求め、帝は「豫章に太守は要らない、なぜ急いで死地に身を投じるのか」と危惧したが、范甯は占いを信ぜず強いて赴任を願い出た。出発に際し上疏し、道が虚簡・平静を尊ぶべきなのに、当時の労役が過重で百姓が疲弊している実情を述べ、公卿に広く得失を議させるよう求めた。
  • 帝の詔を受け、范甯は改めて時政を論じた。土断(本籍地でなく居住地に基づく戸籍制度)を整備し、荒廃した小郡県を併合すべきこと、清廉な人材を守宰に登用すべきこと、送故(離任時の護送に伴う物資の流用)を制限すべきこと、奢侈の風潮を改めるべきこと、成人と未成年の年齢区分を見直すべきことなどを詳細に論じた。帝はこれを善しとした。
  • 范甯は豫章に赴くと大いに学校を興し、交州から磬石を取り寄せて学用に供し、旧制を改革して常規にとらわれなかった。遠近から千余人が集まり費用は全て私的な俸禄から出した。郡内四姓の子弟を学生とし五経を学ばせた。しかし学台の造営が費用を膨張させ、江州刺史王凝之が豫章太守の奢侈と専断(郡城の門の増設、家廟の私設、諸県への廟社の強制など)を上奏し、詔で厳しく問責された。子の范泰が天門太守として弁明したが、帝は范甯の目的が学問にあることを考慮し裁定を長引かせ、赦により免れた。

范甯――晩年

  • かつて范甯が眼病を患い中書侍郎張湛に処方を求めた際、湛は宋の陽裏子から代々伝わる伝説の秘法(読書を減らし思慮を控え内観と外観を慎み早寝早起きするという六つの心得)を説いて戯れに教えた。免官後は丹陽に隠棲し経学に励み続け、享年63で家にて卒去した。
  • 范甯は『春秋穀梁氏伝』に優れた注釈がないことを憂い、長年の思索の末に集解を著した。その義は精緻で世に重んじられ、後に徐邈がさらに注を加えたことも世に称えられた。子の范泰は元熙年間、護軍将軍となった。