経歴
- 堅は字を子常といい、博学で文章に優れた。永嘉年間、江東へ避難し佐著作郎・撫軍参軍を拝した。蘇峻討伐の功により都亭侯を賜り、累遷して尚書右丞となった。殿中帳吏の邵広が官の帳幕三張・布三十匹を盗んだ罪で棄市に処されようとした際、その子の宗(13歳)と雲(11歳)が登聞鼓を打って自ら奚官の奴となり父の命を贖おうと訴えた。尚書郎硃暎は、子のない父が少ない以上これを一度認めれば永制となり、死罪の刑罰が緩む恐れがあると論じ、堅もこれに同意した。時の議論では邵広を鉗刑(首かせ)に処し二子を没入すれば十分な懲罰となり、かつ孝の道を示せるとする声もあったが、堅は駁論し、王者の制度は動もすれば盛衰に関わる重大事であり、一度の恩恵で万人の怨みを招くことになると論じた。成帝はこれに従い邵広は死刑に処された。後に護軍長史に遷り官にて卒去した。
- 子の堅啓は字を栄期といい、学問では父に及ばないが才義で当世に知られた。当時の清談の士である庾龢・韓伯・袁宏らと親交を結び、秘書郎から顕職を歴任し黄門侍郎で終わった。父子ともに文筆が世に伝わった。