鮮卑段部の興隆
- 段匹磾、東部鮮卑の人。代々部族の大人。父務勿塵は東海王越の征討を助け、王浚は娘を嫁がせて親晋王・遼西公に推挙。懐帝は務勿塵を大単于、匹磾を左賢王とした。務勿塵の死後、弟の涉復辰が務勿塵の子疾陸眷を単于に立てた。
- 劉曜の洛陽侵攻に際し、王浚配下と疾陸眷・文鴦・末杯が石勒を襄国で攻めるが、末杯が捕らえられる一幕があり、疾陸眷は文鴦の反対を押し切って和議し末杯を取り戻した。石勒は疾陸眷に厚く報い、文鴦と季龍(石虎)は義兄弟の盟を結んだ。
末杯との内紛
- 建武初、匹磾は劉琨を大都督に推し石勒討伐を約すが、末杯が石勒の賄賂を受け、疾陸眷らに「父兄をさしおいて子弟(匹磾)に従うのか」と讒言して撤兵させた。疾陸眷の病死後、末杯は匹磾の簒奪を宣言して攻撃し、涉復辰とその一族二百余人を殺して自立、単于となった。
劉琨殺害とその後
- 王浚の敗死後、匹磾は幽州刺史となり劉琨と再び盟約するが、末杯に敗れて士衆が離散し、劉琨に己の地位を奪われることを恐れて殺害、以後晋人の離散を招いた(劉琨の伝に詳しい)。
- 邵続を頼り、負傷しながらも共に末杯を追撃し大破。文鴦は薊城への北討で邵続の陥落を知り軍が動揺するが、石季龍の妨害を親兵数百で切り抜けた。石季龍が城下を掠奪した際、文鴦は匹磾の制止を振り切り出撃、「敵に略奪された人を見捨てるのは丈夫ではない」と壮士数十騎で奮戦したが、馬が疲れて動けなくなり、辰刻から申刻まで戦った末に捕らえられた。
最期
- 匹磾は単騎での帰朝を望むが、邵続の弟邵洎に阻まれる。邵洎が使者王英を石季龍に送ろうとすると、匹磾は「兄の志を継がず、私を帰朝させず、天子の使者まで捕らえようとするのか、私は胡といえどもそのようなことは聞いたことがない」と叱責し、黄河を渡って南へ向かった。
- 石季龍の前では朝服・持節のまま「私は国恩を受け汝を滅ぼす志があったが、不幸にも我が国が乱れこの様になった、死ねぬ以上、汝に敬意も示さぬ」と述べた。石勒・季龍とはかつて義兄弟の盟を結んでいたため季龍は起って拝礼したが、匹磾は襄国に至っても晋の朝服と符節を捨てなかった。一年余り後、国中で匹磾を主に推す謀議が露見し殺害された。文鴦も鴆殺され、末波のみが生き残った。末波の死後は弟の牙が、牙の死後は疾陸眷の孫の遼が跡を継いだ。
- 段部は務勿塵以来、晋の混乱に乗じ独自の位号を称して遼西の地に拠り、幽州から遼水にかけて三万余家、四五万騎を擁したが、石季龍との抗争が続き、ついに季龍に破られ数万家が司雍の地へ徙された。その子段蘭も抵抗を続けたが、石氏滅亡後、末波の子段勤が枉人山に拠って趙王を称し慕容俊に降り、のち冉閔に敗れて繹幕へ徙され、僭称の帝号も慕容恪の攻撃を受けて降伏に至った。