晉書卷六十三 列傳第三十三 魏浚

洛北における自立

  • 魏浚、東郡東阿の人、関中に寓居。河間王顒の乱の際、武威将軍。度支校尉として才幹を発揮し、永嘉末、流民数百家と共に河陰の硤石を守った。京師の飢饉に際し掠奪で得た穀麦を懐帝に献上し、揚威将軍・平陽太守(度支は元のまま)に任じられたが乱により赴任せず。
  • 洛陽陥落後は洛北の石梁塢に拠り、遺民を養い軍備を整え、賊に従っていた者にも「晋の運命はなお長い」と説いて帰順させ、遠国からも人が集まった。劉琨の承制で河南尹を仮授。太尉荀籓の行台に李矩と共に招かれた際、部下の反対を押し切り「忠臣は心を同じくする、何を疑うことがあろう」と夜間に赴き、荀籓・李矩と固く結んだ。
  • 劉曜が魏浚の勢力を警戒し包囲攻撃、劉演・郭默の援軍を劉曜が河北で撃破。魏浚は夜間の脱出を図るが劉曜に捕らえられ殺害された。平西将軍を追贈。族子の魏該がその衆を率いた。

魏浚の族子・魏該

  • 魏該、一名は魏亥、京兆の陰磐に寓居していた。河間王顒の趙王倫討伐に将兵都尉として従軍。劉曜の洛陽攻撃時、金墉城を守って難を逃れた。
  • 杜預の子杜尹が弘農太守として一泉塢に屯していた際、共同で賊に当たろうと誘われ将の馬瞻を派遣したが、馬瞻は隙を見て杜尹を殺害し塢を奪って魏該に迎えた。荀籓は魏該を武威将軍として雍涼の人々を統率させ劉曜討伐に当たらせ、元帝は冠軍将軍・河東太守に進めた。
  • 劉曜の李矩攻撃を退け、河南尹任愔とも連携するが、飢弊が続き劉曜の侵攻も止まず、南への遷移を図るが従わぬ者も多く、単騎で南陽へ逃れた。帝は前鋒都督・平北将軍・雍州刺史に任じたが、馬瞻が残余の兵を率いて劉曜に降伏。劉曜の苛政に不満を抱いた部曲が魏該を迎え、馬瞻を殺して復帰させた。新野に遷り、周訪の杜曾討伐を助け順陽太守となる。
  • 王敦の反乱時、梁州刺史甘卓の誘いに対し「私はもとより賊を離れ忠を尽くす身、王公(王敦)が天子に兵を向けるのに与するはずがない」と拒絶。蘇峻の乱では臺軍救援に赴き陶侃の指揮下に入るが、乱の平定前に病篤くなり道中で没し、武陵に葬られた。従子の魏雄がその衆を統率した。