塢主から将軍へ
- 郭默、河内懐の人。若く微賤の身から太守裴整に壮勇を認められ督将となる。永嘉の乱に際し自ら塢主となり、漁舟で旅人を掠めて巨富を築き、流民が多く帰依した。妻の兄が官米を妹に贈った際、規律違反として殺そうとし、兄が石勒に逃げると、私心なきことを示すため自ら妻を射殺したという逸話が伝わる。
- 劉琨に謁見し河内太守を授かる。劉元海の甥劉曜の包囲攻撃を受け、妻子を人質に出して糴(穀の購入)を得た後に守りを固めたため劉曜は怒り妻子を河に沈めて攻撃。弟の郭芝を劉琨に救援を求めさせたが、劉琨は郭默の狡猾さを警戒し出兵を遅らせた。郭芝を石勒への人質として送るが、石勒は郭默を信用せず劉曜へ書簡を送り、郭默はこれを察知して包囲を突破し李矩のもとへ走った(李矩伝に詳しい)。
度重なる離反と最期
- 太興初、潁川太守。石匆との戦いに敗れ李矩の勢力が衰えると、深く憂懼し参軍殷嶠に印綬を預けて陽翟へ出奔。李矩は激怒し郭誦に追撃させ、郭默は妻子を捨てて単騎で逃走、建康に至って明帝から征虜将軍を授かる。劉遐の死後は北中郎将・監淮北軍事・仮節となり、劉遐の旧部下李龍らの反乱を趙胤と共に鎮圧した。
- 蘇峻討伐に際し後将軍・屯騎校尉として初戦は功があったが、六軍敗北後は南奔。郗鑒の策で曲阿北の大業里に塁を築いて守り、蘇峻の攻撃を耐え抜き(乱後)右軍将軍に。
- 辺将として禁兵の任を嫌い、平南将軍劉胤に「私は胡を防げるのに用いられない」と不満を漏らす。劉胤との間には従来の遺恨(郭默が召還される際、劉胤の属官張満らに侮辱された経緯や、饋物の投げ捨てなど)があり、蓋肫の讒言(劉胤が張満・荀楷らと謀反を企て郭默排除を企てているとの噂)を信じ、郭默は劉胤を急襲して斬殺、その僚佐も大逆として誣告し首を京師へ伝えた。詔書を偽造して内外に示し、桓宣・王愆期を招くが桓宣は応じず。
- 司徒王導は事態を制御できず一旦大赦し郭默を西中郎将・江州刺史としたが、武昌太守鄧岳の報を受けた太尉陶侃は「これは必ず偽りだ」と即座に討伐に向かい罪状を上奏。陶侃は郭默の驍勇を惜しみ降伏を勧めるが、郭默配下の張醜・宋侯らが処刑を恐れて動けず、ついに宋侯が郭默を縛って降伏、軍門で斬られた。同党四十人も死し、首は京師に送られた。
【史評】
- 史臣曰く、邵続・李矩・魏浚・郭默らの諸将は、乱世の中で戎馬を駆り、威望と勇略で衆を治め、危城を守って千里の敵を挫き、義勇を集めて仇敵に抗った、艱難を嘗めながらも心は常に王室にあった。中でも李矩は寡兵で衆敵を破り連戦連勝、劉聡(玄明)を憤死させ石勒(世龍)を挫いた。惜しむらくは勢力が弱小で功を完遂できなかったこと、これら諸将の中でも最も優れていたと言えよう。郭默は危難の中で身を起こし朝廷に列したが、些細な恨みから誅殺を招いた、その狂悖でなければこうはならなかったであろう。段匹磾はもとより異民族の出でありながら朝廷への忠誠を貫き、国難には忠を尽くし、最後は胡廷にあっても節を曲げなかった、蘇武以来の人物と言えよう。劉琨が段氏に殺されたのはその威名のためであり、匹磾が石季龍(世龍)に殺されたのも人望のためであった、禍福の応報とは何と速やかなことか。『詩』に「言葉に応えぬはなく、徳に報いぬはなし」というのはこのことである。