出自と早期の武功
- 李矩、字は世回、平陽の人。幼少より遊び仲間の統率者としての器量を示した。県令の送迎役から征西将軍梁王肜の牙門となり、氐族斉万年討伐の功で東明亭侯。本郡督護に転じるが、太守宋胄が親族への交代を図り、恐れた宋胄側から刺客を送られるも難を逃れた。劉元海(劉淵)が平陽を攻めた際、郷里の人望を集め塢主に推され、滎陽、のち新鄭へ拠点を移した。
河南での勢力拡大
- 東海王越に汝陰太守として登用され、永嘉初、汝南太守袁孚と共に洛陽千金堨の修築を担う。洛陽陥落後、荀籓・華薈らを保護し屋宇を与え穀物を分けた。荀籓の行台建立に伴い滎陽太守を仮授された。
- 石勒の急襲に対し、老弱を山に避難させ牛馬を放って敵を誘い伏兵で大破。荀籓の上奏で冠軍将軍・陽武県侯・河東平陽太守に進む。長安から東下した群盗を撃破し、略奪された婦女千余人を無条件で解放した逸話も伝わる。
劉聡軍との激戦
- 劉琨配下の郭默が劉元海に追われ李矩を頼った際、甥の郭誦を派遣。劉琨の参軍張肇の鮮卑兵五百騎の助力もあり、劉聡軍を撃退。郭誦は懐城への夜襲も成功させ、郭默は李矩に帰順した。
- 劉聡の従弟劉暢が三万の兵で迫った際、李矩は偽って牛酒を送り降伏を装いつつ、鄭子産祠での祈祷と神兵来援の噂で兵の士気を高め、夜襲で劉暢軍を大破し数千級を斬った。郭默の弟郭芝の援軍も加わり大戦果を挙げた。
- のち劉聡配下趙固の内紛に乗じてこれを帰順させ、劉聡の太子劉粲の孟津侵攻に際しては郭誦の奇襲で撃退。趙固救援では二十余日の激戦の末、夜に穴を掘って包囲を脱するなど、幾度も危機を切り抜けた。劉聡はこの敗北を機に憤死したという。李矩は都督河南三郡軍事・安西将軍・滎陽太守・修武県侯に進んだ。
劉粲政権崩壊後の攻防
- 劉粲の暴虐の末、部将靳准が粲とその一族を殺し劉聡の陵墓を暴くという事変が起き、靳准は李矩に使者を送り梓宮を守っていると伝えた。李矩は朝廷に上奏し使者を送るが、靳准はすでに石勒・劉曜に滅ぼされていた。愍帝即位後、李矩は都督司州諸軍事・司州刺史・平陽県侯に進む。
- 洛陽守備の諸将(尹安・宋始ら)の離反・再帰順が繰り返される中、洛陽は次第に空洞化。李矩は郭誦を陽翟に置いて屯田と防衛を両立させ、石勒配下石生の攻撃をたびたび撃退した。
- 郭默が祖約を侵そうとするのを李矩は諫めたが聞かれず、祖約に敗れる。郭默は石勒の圧力で劉曜への降伏を検討するが李矩は許さず。石良の来襲に李矩軍は敗れ、郭默の勧めでやむなく劉曜への内通を図るが、石勒の妨害で頓挫。郭默は石匆(石勒配下)に敗れ建康へ逃走し、李矩は激怒して郭誦に追討させたが、郭默は妻子を捨てて逃げ、李矩は残された郭默の妻子を厚遇した。
- 最終的に配下に石勒への内通者が現れ、討伐できぬまま李矩は朝廷への帰順を目指し南下したが、途中で兵の多くが逃亡。郭誦ら百余人のみが従う中、魯陽県で落馬して没し、襄陽の峴山に葬られた。