晉書卷五十七 列傳第廿七 胡奮

辺境の武功と楊駿への直言

  • 胡奮、字は玄威、安定臨涇の人。魏の車騎将軍陰密侯胡遵の子。奮は性格が明朗で計略に富み、若くして武事を好んだ。宣帝(司馬懿)の遼東遠征の際、白衣のまま側近として従い厚遇された。帰還後、校尉となり徐州刺史に遷り夏陽子に封じられた。匈奴中部帥劉猛が叛いた際、驍騎の路蕃を討伐に遣わし、奮を監軍・仮節として硜北に駐屯させ蕃の後詰とした。猛を撃破すると、猛の帳下将李恪が猛を斬って降った。この功により征南将軍・仮節・都督荊州諸軍事に累遷し、護軍に遷り散騎常侍を加えられた。奮は代々の将門の出だが晩年になって学を好み、文才も備え、赴任先ではいずれも功績があり、辺境では特に威徳が著しかった。
  • 泰始末年、武帝が政務を怠り色に耽り公卿の娘を大規模に選んで後宮に入れた際、奮の娘も選ばれて貴人となった。奮には一子しかおらず南陽王友となったが早世していたため、娘が貴人になったと聞いて「この老いぼれが死なぬうちに、二人の子のうち男は九地の下に入り女は九天の上に上った」と泣いた。奮は旧臣であり椒房(後宮)の縁もあって大いに寵遇され、左僕射に遷り鎮軍大将軍・開府儀同三司を加えられた。当時、楊駿が皇后の父として驕り高ぶっていたため、奮は駿に「卿は娘を恃んでますます豪奢になったのか。歴代を見るに、天子の家と婚姻して滅門を免れた者はない、遅かれ早かれのことだ。卿の振る舞いを見るに、まさに禍を速めるものだ」と言った。駿が「卿の娘も天家にいるではないか」と返すと、奮は「我が娘は卿の娘の婢に過ぎない、何の損得があろうか」と答えた。当時の人々はこれを憂慮したが、駿は恨みに思いつつも害することはできなかった。奮は後に官のまま卒し、車騎将軍を追贈され諡は壯とされた。奮の兄弟は六人おり、兄の廣、弟の烈もともに名を知られた。
  • 廣、字は宣祖、散騎常侍・少府に至った。廣の子の喜、字は林甫、才幹をもって称され涼州刺史・建武将軍・仮節・護羌校尉に至った。
  • 烈、字は武玄、将として蜀討伐に従った。鍾会の反乱の際、烈ら諸将はみな幽閉された。烈の子の世元は当時18歳で士卒に先んじて鍾会を攻め殺し、その名は遠近に轟いた。烈は秦州刺史となり、涼州が叛いた際には萬斛堆に屯したが虜に包囲され救援もなく殺害された。