涼州平定
- 馬隆、字は孝興、東平平陸の人。若くして知勇に優れ名節を立てることを好んだ。魏の兗州刺史令狐愚が事に坐して誅殺された際、州中で敢えて遺骸を収める者がなかったが、隆は武吏でありながら愚の客と称し私財で葬礼を行い三年間喪に服し松柏を植えて礼を尽くしてから帰った。この行いは一州で美談となった。武猛従事に署せられた。泰始年間、呉討伐の役を興そうとした際、朝廷は「州郡から壮勇秀異の才力ある者を広く挙げよ」と詔した。兗州は隆を良将たりうる才として挙げ、司馬督に遷った。
- 涼州刺史楊欣が羌戎との和を失った際、隆はその必敗を陳言し、まもなく欣は虜に討たれ河西が断絶したため、帝は「誰か我のためこの虜を討ち涼州を通じさせる者はいないか」と嘆いた。朝臣は誰も答えなかったが、隆は「陛下がもし臣に任せてくださるなら、臣が平定いたします」と進言した。帝が方略を問うと、隆は「勇士三千人を出自を問わず募り、陛下の威徳を稟けて鼓を鳴らして西へ進めば、醜虜など滅ぼすに足りません」と答え、帝はこれを許し隆を武威太守とした。公卿は「六軍は既に多く州郡の兵も多いのに、なぜわざわざ賞をもって新たに募る必要があるのか、隆の説は妄言で従うべきではない」と反対したが、帝は聞き入れなかった。
- 隆は腰引弩を三十六鈞、弓を四鈞引ける者という条件で募集し試験を行い、朝から昼までに3500人を集め、「これで足りる」と述べた。武庫へ赴いて武具を選ぼうとした際、武庫令と争いになり御史中丞が隆を弾劾したが、隆は「臣は戦場で命を捨てて恩に報いようとしているのに、武庫令は魏代の朽ちた武具を与え使い物にならない、これは陛下が賊を滅ぼさせようとする意図に反する」と述べ、帝はこれに従い三年分の軍資を与えた。
- 隆は温水を西に渡った。虜の樹機能らは万を数える兵で険を恃んで前を遮り、あるいは伏兵で後を断とうとした。隆は八陣図に基づき偏箱車を作り、地が広ければ鹿角車営を組み、道が狭ければ木屋を車上に設けて戦いながら進んだ。弓矢の届く範囲は当たれば倒れ、奇謀を次々と繰り出し敵の意表を突いた。あるいは道の両側に磁石を積み、賊が鉄鎧を背負って前進できなくする一方、隆の兵はみな犀甲を着けて支障なく進んだため、賊は神業と恐れた。千里を転戦し殺傷は数千に及んだ。
- 隆が西へ向かって以降、音信が断たれ朝廷は憂慮し、既に没したかと噂されたが、後に隆の使者が夜に到着すると帝は手を打って喜んだ。翌朝群臣に「もし諸卿の言に従っていたら、秦・涼二州を失っていただろう」と述べ、詔して隆を仮節・宣威将軍とし赤幢・曲蓋・鼓吹を加えた。隆が武威に至ると、虜の大人の猝跋韓・且萬能らが一万余落を率いて帰降し、前後の誅殺・降附は万を数えた。また善戎の沒骨能らとともに樹機能と大戦してこれを斬り、涼州はついに平定された。
- 朝議で隆の将士に勲賞を加えようとした際、有司は隆の将士は既に顕爵を先に加えているため重ねて授けるべきでないと奏したが、衛将軍楊珧は「先に将士を精選募集した際、爵命を少なく加えたのはあくまで誘引のためであった。今、隆は全軍で独り克ち西土は安寧を得た。前に授けた爵をもって今回の功を塞ぐべきでなく、みな聴許して信義を明らかにすべきだ」と反駁し、その議に従い爵と秩をそれぞれ差をつけて賜った。
- 太康初年、朝廷は西平が荒廃していたため復興を図り、隆を平虜護軍・西平太守とし精兵を率いさせ、さらに牙門一軍を与えて西平に屯させた。当時南方の虜の成奚がしばしば辺境を侵していたが、隆が至って討伐した。虜は険に拠って守ったため、隆は軍士にみな農具を負わせ田を耕すように装わせた。虜が隆に討伐の意志なしと油断すると、隆はその隙をついて撃破した。隆の統治が終わるまで、虜は再び寇することはなかった。
- 太熙初年、奉高縣侯に封じられ東羌校尉を加授された。十余年在任し、威信は隴右に轟いた。当時、略陽太守の馮翊嚴舒は楊駿と姻戚関係にあり、密かに隆に代わろうとして隆が年老いて耄碌し軍務に堪えないと誹謗したため、隆は召還され舒が代わって鎮した。氐・羌が結集し百姓は驚懼した。朝廷は関隴の再乱を恐れ舒を免じ隆を復職させたが、隆はついに官のまま卒した。
- 子の咸が跡を継ぎ、これも驍勇であった。成都王司馬穎が長沙王司馬乂を攻めた際、咸は鷹揚将軍として河橋中渚に兵を屯したが、乂の将王瑚に敗れ陣没した。