晉書卷五十五 列傳第二十五 潘岳

出自と『藉田賦』

  • 潘岳、字は安仁、滎陽中牟の人。祖父潘瑾は安平太守、父潘芘は瑯邪内史。岳は若くして才穎で知られ、郷邑では「奇童」と呼ばれ、終軍・賈誼になぞらえられた。早くに司空・太尉府に召され秀才に挙げられた。

泰始中、武帝が自ら藉田(親耕の儀礼)を行った際、岳はこれを称える賦を作った。晋の四年正月、皇帝が群臣を率い千畝の田で藉田の礼を行った様子を、祭壇の荘厳、車馬の行列、百官の整列を美しく描写し、皇帝が自ら耜を執り三度耕して後は庶人が畝を終える儀礼の様、邑の老農が「損益は時に随うもので、高きは低きを基とし人は食を天とする、聖上が豊かな時に不足を思い安逸な時に倹約を思うのは堯・湯の心構えである」と称える言葉、そして最後に「孝を治の本とし躬耕により祖先を祀り、勧農により百姓を足らしめる、この一挙に二つの美徳が現れている」として頌(賛歌)を捧げる、という内容であった。

不遇と諷刺

  • 岳は才名が世に冠絶していたため人々に妬まれ、十年ほど不遇であった。河陽令に出たが、才を恃みながら鬱々として志を得なかった。当時、尚書僕射山濤、領吏部王済、裴楷らが帝に親任されていたのを内心快く思わず、閣道(宮中の回廊)に「閣道の東に大牛あり、王済が軛を、裴楷が鞧(車の後ろ具)を引き、和嶠は急かされて休む暇もない」との謡を書き付けた。

懐令としての逆旅議

  • 懐令に転じた。当時、旅館(逆旅)が末業とされ農を廃らせ、姦淫・逃亡者の温床になっているとして廃止し、十里ごとに官の宿駅を設け貧しい老幼に守らせ、吏を配して客舎並みに料金を取る案が出た。岳はこれに反対する議論を提出した。逆旅は久しい制度で、旅人は休息を得、住民はわずかな利を得て交易も行われ、官には賦役の負担がなく百姓に恵みがある、許由や晋の陽処父も逆旅に泊まった故事、魏武帝(曹操)も詩に逆旅を整えて商賈を通わせるべきと詠んだこと、商鞅だけがこれを咎めたが聖世の言ではないこと、盗賊は人の少ない場所で起こり人の多い旅館街ではかえって取り締まりが利くこと、官が独占して税を取れば下級の吏が徴税の権を握り不正の温床になることなどを論じ、逆旅を存続させるべきだと訴えた。この議は朝廷に容れられた。

官歴と賈謐への追従

  • 二県の令を歴任して政績を挙げ、尚書度支郎に転じ、廷尉評に遷ったが公事により免官となった。楊駿が輔政すると太傅主簿に引かれたが、楊駿誅殺後に除名された。かつて譙の公孫宏が貧しく岳の治める河陽で寄食していた際、岳はその才芸を愛し厚遇した。後に宏が楚王司馬瑋の長史となり生殺与奪の権を握った際、楊駿の属僚は連座を免れなかったが(同署の主簿朱振は既に処刑された)、岳はその夕方たまたま外出していたため難を逃れ、宏が瑋に「岳は仮の吏に過ぎない」と取りなして助けたという。まもなく長安令に選ばれ『西征賦』を作り、経由した地の人物・山水を叙述した(文は清らかで趣旨は深いが多くは省略する)。博士に召されたが赴任前に母の病により辞し免官となった。後に著作郎、散騎侍郎を経て給事黄門侍郎に遷った。

岳は性格が軽躁で世俗の利に走り、石崇らと共に賈謐に諂い仕え、賈謐が外出するたびに崇と共に土埃を望んで拝礼するほどであった。愍懐太子を陥れる文書も岳の筆によるものであった。賈謐の門下二十四友の筆頭は岳であり、賈謐が編ませた『晋書』の時代区分の議も岳の筆による。母はしばしば「お前はいい加減に満足を知るべきだ、なぜ利を求め続けるのか」と叱ったが、岳はついに改めなかった。

『閒居賦』

  • 仕官が思うようにいかず『閒居賦』を著した。序文では、汲黯伝で司馬安が四度九卿に昇ったことを「巧宦」と評した史書の記述に感じ、自らを「拙」の人と位置づけ、若くして郷里の誉れを得たものの、河陽令・懐令・尚書郎・廷尉評、太傅主簿(免官)、長安令、博士(不拝)等、二十歳から五十歳近くまでの間に八度異動し進階は一度、免官二度、除名一度に過ぎなかった経歴を振り返り、「拙」であることの証と自嘲する。老いた母への孝養を優先し、閑居して池で漁をし、園で野菜を育て羊を飼って生計を立てる暮らしを選んだとし、賦の本文では、洛水のほとりに構えた邸宅の情景(禁営や明堂・辟雍などの周辺の景観、多種の果樹・野菜の描写)、母(太夫人)を車に乗せて庭園を巡り、一族が集って長寿を祝う宴の様子を描き、最後に自らの才の薄さを省み、優游自適の中で「拙」を養うことを選んだと結んだ。

最期

  • かつて父潘芘が瑯邪内史であった頃、孫秀は小吏として岳に仕えていたが狡猾な性格で、岳はこれを嫌ってしばしば鞭打って辱め、秀は深く恨みを抱いた。趙王倫が輔政すると秀は中書令となった。岳が省内で「孫令はかつての付き合いを覚えているか」と尋ねると、秀は「心に刻んで忘れたことはない」と答え、岳は自らが免れないことを悟った。まもなく秀は岳・石崇・欧陽建が淮南王允・斉王冏を奉じて乱を企てたと誣告し、三人は誅殺され三族が滅ぼされた。岳は刑場に赴く際、母に「阿母に申し訳ありません」と別れを告げた。捕らえられた当初、互いに知らずにいたが、石崇が先に刑場に送られており、後から着いた岳に崇が「安仁、君もか」と言うと、岳は「白首同所帰(白髪になっても共に同じ所に帰る、の意)と言うべきだろう」と答えた。岳の『金谷詩』にはかつて「投分寄石友、白首同所帰」の句があり、これが図らずも予言(讖)となった。岳の母、兄の侍御史潘釈、弟の燕令潘豹、司徒掾潘拠、拠の弟潘詵、兄弟の子や娘たちも、長幼問わずことごとく害されたが、釈の子伯武だけが難を逃れた。豹の娘は母と抱き合って泣き叫び引き離せなかったが、たまたま出た詔により赦された。

岳は容姿端麗で辞藻に優れ、特に哀誄の文を得意とした。若い頃、弾(弾弓)を持って洛陽の道を出歩くと、女性たちが手を取り合って取り囲み果物を投げ入れ、車いっぱいになって帰ったという逸話がある。当時、張載は非常に醜く、外出するたびに子供に瓦礫を投げつけられ、疲れ果てて帰ったという対照的な逸話も伝わる。

附伝・從子潘尼

  • 岳の従子潘尼、字は正叔。祖父潘勖は漢の東海相、父潘満は平原内史で、共に学問と行いで知られた。尼は若くして清らかな才があり、岳と共に文章で知られた。性格は静かで争わず、学問と著述に努めた。『安身論』を著しその守るところを明らかにした。徳を崇めるには身を安んずることが最も大事で、身を安んずるには正を存すること、正を存するには私心を無くすこと、私心を無くすには欲を寡なくすることが肝要であるとし、君子は動く前に身を安んじ、語る前に心を平らかにし、交わる前に相手を定め、行う前に志を篤くすべきだと説く。自私(私心)と有欲(欲望)が争いと怨みの根源であり、権勢を握れば人が群がり寵を失えば散り、利を求めれば偽りの交わりが生じ、路(地位)を争えば骨肉の恨みが生まれる世相を批判し、君子は私を外に置き栄利から遠ざかり、争いに遭っても言い返さず、功があっても誇らないことで、かえって身を全うし交わりを厚くし名を美しくすると論じる。安んずるとは道に安んずることであり、進むとは徳に進むことであり、治むるとは心を治むることであるとし、これらを備えれば国家を保ち富貴に処し万民を治めることができると結んだ。

尼は初め州に辟召されたが父の老いを理由に位を辞し孝養に努めた。太康中、秀才に挙げられ太常博士となった。高陸令、淮南王允の鎮東参軍を歴任。元康初め、太子舎人に拝され『釈奠頌』を上った。元康元年冬、皇太子に『孝経』を講じさせた経緯、元康三年春、皇太子が上庠(大学)で先師に釈奠(祭祀)を行った盛儀(太傅・少傅の随行、儒官・搢紳の陪列、俎豆の供物、金石の楽、六代の舞)を詳しく描写し、この日、遠近から人々が集い道を仰ぎ教えを慕った様を述べ、頌(賛歌)を捧げる、というものであった。

宛令に出て寛容だが放縦を許さぬ政を行い、尚書郎に補され著作郎に転じた。『乗輿箴』を作った。『易』にいう「天地あって後に人倫あり、父子あって後に君臣あり」の理を引き、古の君主は無欲で至公であったため茅茨土階の倹約があったが、後の君主は欲があり自利を図ったため瑶台瓊室の奢侈が生じたとし、天下は一人の天下ではなく天下の天下であると説く。君主の患いは自らの過ちを知らないことにあり、堯・舜・湯・武のような盛世の君主でさえ誹謗の木や敢諫の鼓を設けて諫言を求めたことを挙げ、帝王の事跡と古今の変遷を踏まえた頌を作り、無為の太上の世から礼刑が生じた経緯、殷の紂王の瑶台・酒池肉林の奢侈と滅亡、堯・周文王の倹約と勤勉、禅譲・放伐による王朝交代の必然、知人の難しさ(唐の四凶、周の管叔・蔡叔の例)等を述べ、君主が納言(諫言を聞く姿勢)を大切にすべきことを説いた。

趙王倫が帝位を簒奪し孫秀が専権を握ると忠良の士は皆禍に遭った。尼は病を得て墓参りの休暇を取り、斉王冏の挙兵を聞くと許昌に赴いた。冏は尼を参軍として時務を諮り書記も兼ねさせた。事が定まると安昌公に封ぜられた。黄門侍郎、散騎常侍、侍中、秘書監を歴任。永興末、中書令となった。三王(河間王顒・成都王穎・東海王越ら)の戦乱で皇室に多事があった時期、尼は要職にありながら控えめに過ごし、憂患には及ばなかったが艱難を嘗め尽くした。永嘉中、太常卿に遷った。洛陽陥落が迫ると家族を連れて東の成皋に出、郷里に帰ろうとしたが道中で賊に遭い進めず、塢壁(砦)で病死した。享年六十余。