晉書卷五十五 列傳第二十五 張載
出自と『劍閣銘』
- 張載、字は孟陽、安平の人。父張収は蜀郡太守。載は性格が閑雅で博学、文章に優れた。太康初め、蜀へ父を訪ねる途中、剣閣を経た。蜀の人が険阻な地形を恃んで乱を好む気風があるとして、これを戒める銘を著した。剣閣の険しさ(荊・衡から岷・嶓まで連なり、邛・僰から褒斜まで通じ、彭・碣より険しく嵩・華より高い)を描写し、秦が地の利を得て諸侯を併呑した故事、斉が田生の策で十二の利を得た故事を引きつつ、地の険しさは一人が守れば万夫も阻めるが、興亡は徳によるものであり険阻だけを恃むのは危ういと説き、公孫述・劉禅がいずれも険阻を恃みながら滅んだ例を挙げ、蜀・益州の人々への戒めとした。益州刺史張敏はこれを見て感嘆しその文を上表し、武帝は使者を遣わしてこれを剣閣山に刻ませた。
『榷論』
- 載はまた『榷論』を著した。賢人君子が天下に功名を成すには時機に恵まれなければならないとし、殷湯に鳴条の戦いがなければ伊尹はただの有莘の匹夫、周武王に牧野の陣がなければ呂尚はただの渭浜の釣り翁に過ぎなかったであろうとし、時が平らかであれば才は埋もれ世が乱れれば奇才が用いられると論じる。漢の高祖・光武帝も、もし秦・王莽の世が太平であれば一介の役人・侠客に終わったであろうとし、事があるときは駑馬も鈍刀も用いられないが、事がなければ駿馬も名刀も普通の牛馬・鈍器と同列に扱われる、と説く。太平の世で常軌を外れた功を立てようとするのは山を登るのに後退りするようなもの、漢の文帝が李広を評して「時機に恵まれなかったのが惜しい、高祖の時代なら万戸侯どころではなかったろう」と嘆いた故事を引き、時世を得られない不遇な人物と、逆に時運によって卑賎から卿相に昇る者の対比を論じ、有事の世は功を立てやすく無事の世は名を成し難いことを述べる。さらに、小才を飾り朋党を結んで俗に阿る当世の風潮を批判し、地位や爵位を積み重ねるだけの凡庸な士と、政を匡し世を益することなく徒に栄利を求めるだけの高官を「沐猴而冠(見かけ倒し)」と切り捨てた。
官歴と晩年
- 載はまた『蒙汜賦』を著し、司隸校尉傅玄がこれを見て感嘆し車で迎えて終日語り合い、載の名声を広めたことで載は名を知られるようになった。佐著作郎から起家し肥郷令に出、再び著作郎となり、太子中舎人、楽安相、弘農太守を歴任した。長沙王司馬乂に記室督として招かれ、中書侍郎を拝命し著作も兼ねた。世が乱れゆくのを見て仕進の意欲を失い、病篤いと称して帰郷を願い、家で亡くなった。
附伝・弟協
- 弟の張協、字は景陽。若くして俊才があり兄載と並び称された。公府掾に辟召され秘書郎に転じ、華陰令、征北大将軍従事中郎を経て中書侍郎に遷った。河間内史に転じ、郡では清廉で欲が少なかった。
当時天下は既に乱れ各地に盗賊が横行していたため、協は世事を絶ち草沢に隠棲し、道を守って争わず詩文を作って自ら楽しんだ。文士たちに倣い『七命』を作った。「沖漠公子」(隠者)と「徇華大夫」(世俗の栄達を勧める者)の問答形式で、大夫が音楽の妙、宮殿の壮麗さ、狩猟の豪快さ、名剣、名馬、美食、そして晋の盛んな徳治(融和した天下、遠方の異民族すら帰服する様)を七つの主題にわたって次々に説き、沖漠公子を誘おうとするが、公子はそれぞれ「病のため未だできない」と辞退を重ね、最後に「大夫が誘う音楽・田遊・利刃・駿足の類は老子が戒めるところで自分の望むものではない、しかし今、皇風が正しく時に聖道が醇である(優れた治世である)と聞くからには、及ばずながらお供しよう」と述べて出仕を承諾する、という筋立てであった。世人はこの文を巧みと評した。
永嘉初め、再び黄門侍郎に召されたが病と称して赴かず、家で亡くなった。
附伝・協弟亢
- 協の弟張亢、字は季陽。才藻は兄二人に及ばなかったが文章を綴ることができ、音楽・伎術にも通じた。当時の人々は張載・張協・張亢・陸機・陸雲を併せて「二陸」「三張」と称した。中興(東晋建国)の初め、江南に渡り散騎侍郎を拝した。秘書監荀崧が亢を佐著作郎に挙げ、烏程令に出た後、散騎常侍に入り再び佐著作郎を兼ねた。『暦賛』一篇を著した(『律暦志』参照)。
史論
- 史臣曰く。孝若(夏侯湛)は文才が春の華のごとく咲き誇り、その時代に麗しい文藻を示した。『抵疑』が窮達を天に帰する理を説き、『昆弟誥』が孝弟の美声を広めた様を見れば、その旨は深く趣は遠く、まさに大雅の風格を備えている。安仁(潘岳)は思緒が雲のように高く、詞鋒は輝き、前代の賈誼、先達の陸機(士衡)になぞらえられる。賈誼の論は王化の奥深さを源とし、潘岳の哀辞は人の情の本質を貫いた。陸機の文は海のごとく崑崙の玉山を蔵しながら雑草も交じり、潘岳の藻は江のごとく美錦を洗ってさらに彩りを増した。三家(賈誼・陸機・潘岳)を通じて校べれば、機・岳の二賢はほぼ肩を並べる存在であった。しかし岳が弾を持ち歩き果物を得た逸話、土埃を望んで貴人に拝礼した振る舞い、門を守る者の教え(清廉の教訓)を捨て利を貪って止まなかったことを思うと、これほどの才を持ちながらこのような行いに走ったのは、天が与えた性質の何と偏っていたことか。正叔(潘尼)は芸文を深く味わい、危うきに居ても正しさを守り、身を安んじてから動き心を定めてから語り、『安身論』で人道の要を説き、『乗輿箴』で君主への戒めを示した、まさに玉の質と金の相を兼ね備えた人物と言える。孟陽(張載)の剣閣に刻んだ文は張敏に奇とされ、『蒙汜賦』の詠は傅玄に重んじられ、当代の名流に推され文宗と称するにふさわしい。景陽(張協)は王府で才を輝かせ、兄弟相並んで光彩を放った。しかし二陸(陸機・陸雲)が洛陽に入るに及んで三張の声価は下がったと言われる。遺された文章を考証すれば、これは根拠のない評言ではない。
賛にいわく。湛(夏侯湛)は筆を振るうと称えられ、彩り豊かな文章を綴った。才は高いのに官位は低く、昔の賢者もこれを嘆いたものだ。岳(潘岳)はまことに文才を蓄え、詞藻は抑揚に富んだ。しかし権勢に趨り勢いに媚びて、ついに禍に遭った。尼(潘尼)は雅やかな性を示し、早くから優れた言葉を世に聞かせた。載(張載)・協(張協)は芳しい名を並べ飛ばし、兄弟の花がいよいよ輝いた。