晉書卷五十五 列傳第二十五 夏侯湛

出自と『抵疑』

  • 夏侯湛、字は孝若、譙国譙の人。祖父夏侯威は魏の兗州刺史、父夏侯荘は淮南太守。湛は幼くして優れた才があり文章は宏富、容姿も美しく、潘岳と親しく、常に車を同じくし敷物を接するほどで、京都の人々は二人を「連璧」と称した。

若くして太尉掾となる。泰始中、賢良に挙げられ対策で中第となり郎中に拝されたが長年昇進せず、『抵疑』を著して自らを慰めた。当路子(世に用いられる人)と夏侯子(湛自身)の問答形式の文章で、当路子が「才も時機も恵まれながら官は散郎止まり、賢良の推挙止まりで昇進しない、なぜ著述にのみ耽り自らを売り込まないのか」と詰ると、夏侯子は「孔子の『徳を修めず学を講ぜず義を聞いて移らず不善を改められないのが憂い』との言葉を引き、四徳を備えても名位が至らないのは自分の責任ではない、君子は己に求め小人は人に求めるものだ、世に道があれば士は節を曲げず、黜陟が明らかであれば下は力を量られない、今の太平の世は俊才が溢れ官に列する者は数知れず、自分のような凡庸の言葉は取るに足らない、脂車秣馬(出仕の準備)を整えつつも今は退いて農夫のように悠々自適でいたい」と答え、さらに古の君子(伊尹・呂尚・傅説・甯戚らの登用譚、また荘周・厳君平・接輿・梅福ら隠者の生き方)を引きながら、自らは季札・揚雄・蘧伯玉・柳下恵のような清節を慕うのみだと結んだ。

野王令としての治績と『昆弟誥』

  • 後に太子舎人に補され尚書郎に転じ、野王令に出た。恤隠(民の困窮を救うこと)を優先し公の調達には緩やかであった。政は清く務めは閑であったため『昆弟誥』を作った。これは弟の淳・琬・瑫・謨・総・瞻に語りかける形式の文章で、孝と兄弟の友愛の徳を説き、先祖(滕公=夏侯嬰以来の家系)の功業と徳、亡き父母の教え、特に母羊姫の慈愛と厳格な教育を称え、弟たちそれぞれの美質(淳の英明・琬の沈毅・瑫の清粋・謨の俊哲・総の弘粛・瞻の純和)を挙げて励まし、自らの至らなさを認めつつ弟たちと共に家の徳を守り高めていくことを誓う内容であった。

官歴と最期

  • 邑にいること数年、朝野は湛の不遇を惜しんだ。中書侍郎に除せられ、南陽相に出た。太子僕に遷ろうとしたが赴任前に武帝が崩御した。恵帝即位後、散騎常侍となった。元康初め、四十九歳で卒した。三十余篇の論を著し一家の言をなした。

かつて湛が『周詩』を作り潘岳に示すと、岳は「この文は温雅なだけでなく、孝弟の性が別に表れている」と評し、これに感じて『家風詩』を作った。

湛の一族は盛門であったが、湛自身はかなり豪奢な生活を送り、侯服玉食(贅沢な衣食)を極めた。しかし没する際には小さな棺で薄葬にし墓標も築かないよう遺命した。論者は、湛が生前は名節を励まなかったが死に際しては倹約を貫き終わったことを、存亡の理に深く達していたためと評した。

附伝・弟淳・淳子承

  • 弟の淳、字は孝沖。文才があり湛と共に知られ、官は弋陽太守に至った。中原陥落の際、子や甥の多くが胡族の侵攻で亡くなったが、息子の承だけは江南へ渡ることができた。承、字は文子。安東軍事に参じ、南平太守に進んだ。太興末、王敦が挙兵した際、承は梁州刺史甘卓・巴東監軍柳純・宜都太守譚該らと共に檄文を発し王敦の罪状を列挙したが、甘卓が疑って進撃しなかったため官軍は敗れ、王敦は異心の者を悉く誅した。承も捕らえられ殺されかけたが、外従兄の王暠が懸命に取りなして免れた。まもなく散騎常侍となった。