挙賢良対策
- 阮種、字は徳猷、陳留尉氏の人。前漢侍中阮胥の八世孫。弱冠にして卓越した節操を持ち、嵆康に重んじられた。嵆康の『養生論』にいう「阮生」とはこの種のことである。孝廉に察挙され公府掾となった。当時西方の異民族が内侵し災異が頻発し百姓が飢饉に苦しんだため、三公・卿尹・常伯・牧守にそれぞれ賢良方正直言の士を推挙させる詔が出され、太保何曾が種を賢良に推挙した。武帝の策問では、王道の本を明らかにするよう求められ、種は「往古の哲王に倣い世を矯め俗を改め人望に従うべき」と答えた。政刑と礼楽の関係を問われると「政刑の宣揚は礼楽の用によるもの、礼は徳を体し楽は功を詠う、楽は和に本づき礼は敬を師とする」と答えた。戎蛮の対処を問われると、魏以来夷虜が内附し久しく大きな禍がなかったため辺境の備えが緩んだ現状を指摘し、「王者の征伐は征するあれど戦うことはない、徳をもって遠きを懐かしめるのであり兵によるのではない、兵は凶器・戦は危事であり農を傷め国を虚しくする、漢武帝の匈奴征伐は国力を大いに消耗させた例だ、宣帝・元帝の代に趙充国が西零を、馮奉世が南羌を、いずれも兵を血ぬらさず制した例こそ手本とすべきだ」と論じた。咎徴(凶兆)については「人主が政を修め患いを未然に防ぐべき」、経化の要については「礼義廉恥を先とし賞罰でこれを助けるべき、廉恥が立てば君子は善に譲り小人も制度を乱さない」、文武の徳の実現については「賢才の登用こそ万機を治める根本であり、賢を求め佚(安んじ)してこれに任せることが肝要」と、それぞれ長く論じた。
二度目の策問と栄転
- 種と郤詵、東平王司馬康が共に上第となり、種は尚書郎に任じられた。しかし対策が偽って作られたものではないかとの誹りがあったため、帝は改めて群士を庭に集めて再び策問した(水旱の災への対処、民の疲弊の救済、政の得失、賢才登用の方法等)。種は「休役静人(労役を休め民を安んぜること)」を説き、「役が煩雑で網(法網)が密であることが民の疲弊の原因であり、これを除くことが損益の要諦・安危の大端である」と答えた。策奏を帝自ら閲覧し、再び第一とされ中書郎に転じた。挙措に規範があり自らを正し部下を率いたため朝廷は皆その威容を憚った。駁議を出せば施行され楷則とされた。平原相に転任し、当時襄邑の衛展が南陽太守から河内に遷り同時に拝命したため、帝は「二千石が皆このようであれば私に何の憂いがあろうか」と望んで歎じた。種は政を簡明かつ恵み深く行い百姓に称えられ、任地で亡くなった。