晉書卷五十二 列傳第二十二 郤詵

出自と挙賢良対策

  • 郤詵、字は広基、済陰単父の人。父の郤晞は尚書左丞。詵は博学多才で瑰偉倜儻(傑出し細事に拘らない気性)、細行に拘らず、州郡の招聘にはいずれも応じなかった。泰始中、天下に賢良直言の士を求める詔が出され、太守文立が詵を推挙した。武帝の詔策では、太上(上古)の徳による無文の治から三代の礼楽制度の充実への変遷、虞夏の間の損益、周が衰えてなお孔子が周に従うと言った理由、覇者による補佐の限界、当今の政道が古に及ばない理由等が問われた。詵は「上古は賢を推し譲るゆえ易簡でも人が化した、三代は世襲が続き末には礼が形式化したため文が繁くなった、これは帝王の道の違いではなく弊を救う道の違いである、周は前代の凋弊を承け礼楽制度を尽くしたので孔子も時宜に従い周に倣うと言ったのだ」と答えた。「不刊の統を建て風俗を移すには何を修めるべきか」との問いには、「人を択んで官に就けることに尽きる、古の官人は君が上で責め臣が下で挙げ、得れば賞し失えば罰したから人は賢を求めた。今は父兄・親戚の縁故が幅を利かせ、人は爵を求めて動き、動けば争い朋党が生じ、朋党は誣罔を生み臧否の実を失わせる。逆に静であれば貞固・正直・信譲が生じ推賢の風が育つ。天子の下で宦者に関門がなく朝廷が賢を責めなければ、邪門が開き正路が塞がる。舉賢の典章を建て人物保証の制(不適格者を推薦した者を罰する仕組み)を厳格にすべきだ」との趣旨で長く論じた。夷狄侵入・災異の問いには「任賢による恵政が根本であり、水旱の災は備えを怠らねば堯・湯の世のようにこれに困窮しない、人事を尽くさず天のせいにするのは百姓を安んじる道ではない」と答えた。

対策後の栄達と喪礼

  • この対策で上第となり議郎に任じられた。母の喪により去職。詵の母が病んだ際、車がなく、亡くなっても柩を運ぶ車を得られず、住まいの北壁の外に仮に埋葬して戸を設け朝夕に拝哭し、鶏を養い蒜を植えて方策を尽くした。喪が三年を過ぎてようやく馬八匹を得て柩を墓に運び、自ら土を運んで墳を築いた。完了しないうちに征東参軍に召された。のち尚書郎、車騎従事中郎に転じた。

崔洪との確執と栄転

  • 吏部尚書崔洪が詵を左丞に推薦したが、在職中に事があって詵が崔洪を弾劾し恨まれた(詳細は『崔洪伝』参照)。詵は公正な立場からこれを拒んだが、洪は後にこれを聞いて慚じ服した。累進して雍州刺史となった。武帝が東堂で送別の宴を開いた際、「卿は自らをどう評価するか」と問うと、詵は「私は賢良対策で天下第一となりました、なお桂林の一枝、崑山の片玉のようなものです」と答え、帝は笑った。侍中が詵の免官を奏したが、帝は「私が戯れただけだ、咎めるに及ばぬ」と取り合わなかった。詵は任地で威厳明断であり大いに評判を得、官のまま亡くなった。子の郤延登は州別駕となった。