晉書卷五十二 列傳第二十二 華譚

出自と問答

  • 華譚、字は令思、広陵の人。祖父融は呉の左将軍・録尚書事、父諝は呉の黄門郎。譚は生後一年で父を失い、母は十八歳で節を守って養育に努めた。成長すると学を好み弁が立ち、郷里で重んじられた。揚州刺史周浚が従事史に招き、その才を愛して賓客の礼をもって遇した。太康中、刺史嵆紹が譚を秀才に推挙し、赴任に際し別駕陳総が餞別の席で「思賢の主が求才に努めるのに、董仲舒が武帝に、賈誼が文帝に用いられなかったのはなぜか」と問うた。譚は「聖人が上にあれば物事は皆理を得るが、後を継ぐ王は中才・凡人であることも多く、教化は日に衰える。中才の君主は同類を偏愛し、真の賢才の言は誣・妄と誤解されやすい、上官が佞臣を寵愛すれば屈原が放逐され、宰嚭が寵を得れば伍員が殺される。白起の『賢を得る難しさより用いる難しさ、用いる難しさより信じる難しさ』の言葉の通り、賢を得ても用いず用いても信じなければ功業は成らない」と答えた。

武帝の策問(辺境・呉蜀・文武・法令・人材)

  • 洛陽に至ると武帝自ら策問した。北の未羈の異民族、西の氐族への対処を問われ、譚は「聖人は乾綱を祖として教化を広め四聰を開いて賢を招く、皋陶が挙げられ不仁者は遠ざかった例、陸賈が漢を重んじ遠夷が節を折った例のように、今は徳化が広く及んでいる、辺境の未羈の異民族は征しても労多く益少ない、班固の言うように『その地は耕して食すべきでなくその人は臣として畜うべきでない、来れば懲らしめ防ぎ去れば備えて守る』のが安辺の術である」と答えた。呉蜀の民心の違いを問われると、「蜀は文帝(司馬昭)の代から順軌に帰し風教が久しく定着したが、呉は帰順して間もないため、蜀人が敦朴で呉人が軽悍というわけではない、呉は長江に阻まれ旧俗が軽悍であるから、賢才を用い牧伯を厳選し賦斂を軽くして懐柔すべきだ」と答えた。武備を緩めるべきかを問われると「唐堯・文武の盛世にも三苗・獫狁の征があった、文徳と武備は両立させるべきで、武庫の常職を廃するには及ばない、将帥は諸侯として遇し、備えを緩めることなく太平の安寧を保つべき」と答えた。法令の存廃を問われると「五帝・三王もそれぞれ異なる教えを用いたが礼楽による治を旨とした、太平の世でも堯舜は象刑を、殷周は甫侯の律を存置した、律令が存すること自体は政の妨げにならない、太平の雅化を隆んにし仁風を広めるものだ」と答えた。人材登用について問われると「天下は広く卓越の才は必ず存在する、堯舜も二八の才を得るのに時を要した、聖朝が亡国の士や遐裔の人を厚遇する今、賢俊の出現は待つに難くない」と答えた。

王済との応酬

  • 当時、九州の秀孝の策で譚に及ぶ者はなく、同郡の廷尉劉頌は「郷里にこのような才があったとは」と嘆賞した。博士王済が衆人の前で「呉楚の亡国の遺民が何の秀異あってこの挙に応じるのか」と嘲弄すると、譚は「秀異は方外にも生じるもので中域に限らない、文王は東夷に生まれ禹は西羌に生まれた、周の武王が殷の頑民を洛邑に遷したというが、諸君はその末裔ではないか」と切り返した。済がさらに「君臣の位を守れず国を滅ぼした者に何の見どころがあるか」と問うと、譚は「存亡には運があり興衰には期がある、天が滅ぼすものは人力では支えられない、徐偃王は仁義を修めながら国を失い、仲尼(孔子)は魯を逐われ斉に迫られた、段幹木は隠棲したまま名を成した、これは否泰に時があるからで、人力の及ぶところではない」と答え、済は深く感服した。

官歴

  • ほどなく郎中に除せられ、太子舎人・本国中正に転じた。母の喪により去職、服喪後に鄄城令となった。濮水を過ぎる際に『荘子賛』を作り功曹に示したところ、廷掾張延が作った答教の文が優れていたため、譚は異とし推挙して張延は抜擢された。譚が廬江に転じた頃には延は既に淮陵太守となっていた。譚はまた寒門出身の周訪を孝廉に推挙し、訪は後に功名を立て、譚は人を見る目があると評された。父の墓が壊されたことを理由に去官し、ほどなく尚書郎に召された。

廬江内史としての功績

  • 永寧初め、郟令に出た。兵乱の後で境内は飢饉に苦しんでいたが、譚は心を尽くして撫恤した。司徒王戎はこれを聞いて善しとし、穀三百斛を出して助けた。譚には政績が多く、廬江内史に再遷し綏遠将軍を加えられた。当時、石冰の党の陸圭らが諸県に屯拠していたため、譚は司馬褚敦を遣わして討平し、また別軍を送って冰の都督孟徐を撃ちその驍勇の将を捕らえた。功により都亭侯に封ぜられ食邑千戸、絹千匹を賜った。

陳敏の乱と迫害

  • 陳敏の乱では呉の士人の多くが陳敏に逼迫された。顧栄は陳敏の官を受けながら密かにこれを討つ計略を巡らせていたが、譚はその真意を知らず、檄文を各地に発して陳敏の非を極言したため、顧栄の恨みを買った。また郡での政が厳格であったため上司としばしば衝突し、揚州刺史劉陶は日頃から譚と不仲であったため、法をもって譚を捕らえ寿陽の獄に下した。鎮東将軍周馥は譚と親しかったため、道理を尽くして救出した。のち甘卓が周馥を討った際、百姓が逃げ散る中、周馥は譚が既に逃げたものと思い人を遣って様子を見させたところ、譚はかえって馥に近づいていた。馥は「私はかねてより華令思は臧洪(漢末の忠義の士)のような人物だと思っていたが、果たしてその通りだった」と歎じた。甘卓もかつて東海王司馬越の追捕を逃れる際に譚のもとに身を寄せたことがあった。この役でも、甘卓の使者が譚を捜し「華侯はどちらに、私は甘揚威(甘卓)の使いです」と尋ねたが、譚は知らぬと答え絹二匹を贈って帰した。使者が戻って報告すると、卓は「それはまさしく華侯であろう」と見抜き、再び捜させたが、譚は既に逃亡していた。後に紀瞻に推薦されたが顧栄に阻まれ、数年間登用されなかった。

東晋建国後

  • 建興初め、元帝が鎮東軍諮祭酒に任命した。府に用事がなかったため、著書三十巻『弁道』を著し箋を添えて上呈し、帝自らこれに目を通した。丞相軍諮祭酒に転じ、郡の大中正を兼ねた。譚は干宝・范珧を朝廷に推薦し、その後上箋して辞退を願い出た。文中では疎広が老いを理由に致仕したのを漢の宣帝が志に背かず許した故事、幹木(段幹木)が隠棲し文侯がその廬に敬意を表した故事を引き、「自分には古人のような賢はないが遠く仕えることを慕う心はある、清顕の地位に就いて二年、執筆に事を賛ける功もなく拾遺の補闕の績もない、過ちは納言(正しい言を進めること)に暗く善を挙げることを怠った点にあり、狂寇(敵)が服さぬのに謀策も乏しい、年は七十に近づき志気も日々衰えた、無為徒食を続けるのはよくない、辞退したい」と述べたが許されなかった。

晩年

  • 建武初め、秘書監を授けられたが固辞して受けなかった。太興初め、前軍に任じられ、病のため再び秘書監に転じた。自らの旧名を恃み、常に鬱々として不満を抱いていた。晋陵の朱鳳、呉郡の呉震ら学行清らかで老いてなお用いられていなかった人物を著作佐郎に推薦した。ある人が「人と人との差は九牛の一毛に過ぎないというが本当にそうか」と問うと、譚は「昔、許由・巣父は天子の位を人に譲ったが、市井の小人は半銭の利を争う、この差が九牛の一毛程度であろうか」と答え、聞く者は称賛した。

戴若思との軋轢

  • 戴若思の弟戴邈は譚の娘婿であった。譚は日頃から若思を抑え邈を推していたため若思の恨みを買い、若思が用事の際に帝の前でしばしば譚を悪く言い、譚の官途は振るわなかった。譚はこれを不満に思い、帝に「私はもう老いました、秘閣で死を待つばかりです、汲黯の嘆きが今また現れました」と述べたところ、帝は不快に感じた。しばらくして散騎常侍を加えられたが、しばしば病を理由に辞退した。王敦の乱の際には病が重く出仕できず、免官となった。家で亡くなり、光禄大夫・金章紫綬を追贈され散騎常侍を加えられ、諡は「胡」とされた。二子は化と茂。

子・化と茂

  • 化は字を長風といい、征虜司馬となったが汲桑討伐の戦で戦死した。茂が爵位を嗣いだ。

附伝・袁甫

  • 淮南の袁甫、字は公胄。学を好み譚と並び称され、弁舌に長じることで知られた。中領軍何勖のもとを訪れ「劇県(治めるのが難しい県)を治めたい」と願い出ると、勖に「宰県のみを望み台閣の職を望まないのはなぜか」と問われ、甫は「人には各々できることとできないことがある、絹織物のうち最も良いのは錦だが、その錦は袴にはできない、穀物のうち最も美味なのは稲だが、稲を贇(別の用途)に用いることはできない、聖王が人を用いるときは必ず器(能力)を先に考えるものだ、周材(万能の人材)でなければどうしてあらゆる方面に長じられよう、黄霸は州郡で名声を馳せたが京師では評判が沈んだ、廷尉に適した器が三公に適さないことも古来ある通りだ」と答えた。勖はこれを善しとし、松滋令に任じた。淮南国大農・郎中令に転じた。石珩が「卿は弁が立つと聞くが、寿陽より西はなぜ常に旱魃で、東はなぜ常に水害なのか」と問うと、甫は「寿陽以東は元は呉の地、亡国の音は哀しみを帯びるもので、その哀しみが積もって陰となり、陰が積もって雨となり、雨が久しく続いて水害となる、これが常に水害となる理由。寿陽以西は中国(魏晋の地)で、呉を平定して美宝が皆流入し、志が満ち歓びが長く続いた、『公羊伝』にも魯の僖公が甚だ喜んだために京師に旱魃が生じたとある、強きを抑え弱きを扶け先を疎んじ後を親しめば天下は和平となり災害も生じないだろう」と答えた。見る者はその機知を嘆賞した。八十余歳で家で亡くなった。

史論

  • 史臣曰く。政を整え俗を正すには衆才を抜擢して事を成すことが肝要であり、名を振るい光を放つには明主に出会って功績を宣揚することが必要である。武帝の御代は天下が安んじ、朝廷は求賢に意を注ぎ、士は禄を得る機会に恵まれた。郤詵らはいずれも州里に評価を積み重ねて召しに応じ、対策で天皇の問いに答えて高い地位に昇った、前代の賢哲に比べても称するに足る人物である。令思(華譚)は身を持し義に従い、その志の篤さは周・甘(原文のまま。忠節の人物への言及とみられるが、本文からは典拠を特定できない)に比すべきものであった、「仁者は必ず通ず」とはまさにこのことであろう。才行は早くから顕れたのに、晩年は秘閣で終わりを待つばかりであった、積薪の恨み(後進に先を越される嘆き)はひとり古人だけのものではない。

賛にいわく。郤・阮は博識で、文章は政道の本質を体現した。華生(華譚)は徳を養い、頭巾を脱ぎ捨てて召しに応じた。鳥の道を飛び、龍の渡し場を泳ぎ渡るように栄達した。清らかな行いは久しく保たれ、その高い誉れはいよいよ盛んであった。